2017年1月12日木曜日

中島隆信『子どもをナメるな――賢い消費者をつくる』(ちくま新書、2007年)のレジュメを公開

消費社会論勉強会で扱った本のレジュメを公開します。

2017年1月8日に開催した消費社会論勉強会第11回「消費者教育を学ぶ!」で採り上げた、中島隆信『子どもをナメるな――賢い消費者をつくる』(ちくま新書、2007年)です。
筆者の中島隆信さんは経済学の専門家だそうです。

レジュメをまるっと公開すると、本の内容の引き写しになるので、全てではなく、一部を削除した上で公開することにします。
気になったら、書店や図書館にGOということでお願いします。

ちなみに当日は、動機や方向性はわからないではないが、各論では異論噴出という感じでした。
用語の定義の安定しなさや、論法の雑多さが目立つ本ではあるので、当然といや当然なのですが。
(例えば、一章で「インセンティブ設計」の重要性を謳いながら、各論では大して触れていないとか、色々問題のある本ではありそうです)

なお、勉強会は、京都の出町柳にて開催されており、毎回Twiplaで告知されます。毎回、読んでいなくても参加できます。
次回は、2月25日13時から、開催します。テーマは、ミニマリズム/ミニマリストです。シンプルライフについて考えましょう!

以下、レジュメです。扱ったのは、1,3,4章です。


 *




第一章 義務教育の役割


・話題は義務教育。

・いじめを解決するために、子どもにお題目(みんなと仲良くしよう)を伝えても効果がない。上下関係が地下に潜ってさらに陰湿になりかねない。子どもは上から押さえつける/教え込むのではなく、合理的な説明により、筋道立てて説得すべき。

・誰もが消費者になる。だまされないため、よい企業を育てるために、消費者教育が必要。すべての教科に消費者教育の発想を持ち込むべきではないか。



筆者による第一章のまとめ

「義務教育の目的は賢い消費者を育てることである。賢い消費者とはテストができることでもなければ頭の回転が速いことでもない。自分の人生をどのように楽しめばよいいか知っている人である。人生の楽しみ方は誰かに教えてもらうものでもないし、誰かの真似をするものでもない。義務教育における勉強を通じて自分なりの楽しみ方をマスターしていくのである。

 こうした教育は義務教育でしか実現することはできない。なぜなら、いったん愚かな消費者になってしまった人が後から賢い消費者に転身するためには多大なコストを要するからだ。賢い消費者は表層的な情報に惑わされることなく、モノやサービスの品質を見極める能力を持ち、次々と新しいニーズを生み出す。これは市場の質を高め、市場を活性化させる。まさに賢い消費者は社会にとっての大きな財産となるのである。」(48頁)



第三章 すべての学科は「役に立つ」

ニーズの明確化を

・本章は、義務教育を念頭に置いている。

・「なぜこの科目を勉強するんですか」(114頁)と子どもに聞かれたとき、教師の真価が問われる。
・筆者は「子どもが賢い消費者になるための教え方」(115頁)を提案する。

1 数学で世の中がわかる
▼数学は世界共通語
・数学は論理的思考を身につけるのに役立つと言われるが、実際は、論理的思考が得意な学生にとって、数学は有効な「表現ツール」なのではないか。
▼伝達のための抽象的な表現手法
・語学の勉強と同じように、「表現手段としての数学も言語の一種である」とみなせばよい。とすると、「使ってみて役に立つことがわかれば勉強が楽しくなるはずである」。ここでいう「言語というのは、ものごとを抽象化する手段といえる」(117頁)。
▼確率の重要性を敎える
・「確率はリスクすなわち不確実性の伝達手段である」(119頁)。「……現実に人生においてリスクは存在し、人生で危険な目に一切遭わないで済むようなことはあり得ないからだ」(121頁)。

2 「伝達力」は国語から
「読み書き」偏重の国語
・「ものごとの伝達は、基本的に『よっむ』『書く』『聞く』『話す』の四つから成り立っている。言語を学習することの目的は、この四つの手法を身につけることである」(121頁)。
・授業の効率性の観点からも、「聞く」「話す」教育はあまり重視・実践されていない。
▼「聞く」「話す」教育の重視へ
・婉曲表現が広がっていることからしても、自分の意見をはっきりと表明することへの恐怖が見て取れる。スピーク(話す)の名詞形でしかないスピーチ(発話)に、福沢諭吉が「演説」という訳語を当てた後進性は、今も現役なのではないか。
・民の側が筋道立てて広く議論をするという風土が形成されていない日本では、「民は難しいことを知らなくても官のすることに任せておけばいいという考えが染みついて」いるように思える(124頁)。
・こうした事態を招いた一因は、「聞く」「話す」教育の軽視だと思われる。
・「帰りの会」や「自由研究」も、儀礼的・アリバイ的にやっているだけで、「話す」ことの本質を捉えていない。「本来、『話す』ことには話し手によって何らかの価値が付加されていなければならない。単に調べたことを報告するだけなら、どうやって調べたかだけ教えれば誰にでも真似できることだからだ」(125頁)。
・「従来型の『聞く』教育は〔マニュアル化された〕『調査報告』」を静かにおとなしく『ごもっとも』と拝聴することであった」。しかし、本来の「聞く」ことは、「相手の『話す』内容のなかにおかしなところはないか、もしあったら質問してやろうというくらいの緊張感を持って聞かなければ」ならない。その際、「独自性」「論理性」「頑健性」を基準にすればよいのではないか(125頁)。
▼「話す」と「書く」の違い
・「話す」は現前的だが、「書く」は持続性があるなど特性の違いが多い。また、メールなどメディアごとに、あるいは世代ごとに、どういう「つもり」で送っているか/受け取っているかにも違いが出てくる。

3 社会科で平和の価値を知る
▼戦争は損な活動
・第一次安倍政権での教育基本法が説くように、社会科に「愛(国心)」という「きわめてあいまいで個人的なもの」を持ち込んだとしても、「すべての国民にとって学習の目標になりうるか疑問である」(129頁)
・筆者は、社会科の目標として、「平和というものが日本にとっていかに価値のある有り難いものであるか知ること」を掲げる(129頁)。
・戦争という国家による、人的・物的資本の破壊的な消費は、消費者の生活を悲惨なものにする。
▼平和の恩恵が大きい日本
・(平和が可能にする)自由貿易により、資源と食料というネックを解消できている。
・冷害や飢饉などの災害に対して、「有効な手立てを講じる」上でも、交易により社会を豊かにすることは重要(132頁)。
▼消費者主権の合理性
・基本的人権、国民主権、平和主義といった日本国憲法の柱は、「市場経済における消費者主権の考え方」と同義的である(133頁)。
▼統計教育の必要性
・正確な統計へのアクセスは、現状に対する敏感な感受性と変化に対する感覚を喚起する。例えば、国家の窮乏化が政情不安をもたらす、というように思考を働かせることができる。
・政府の統計作成は各省庁に任されている。「見かけ上は数多くの統計が存在しているものの、それらは体系化されておらず、統計作成のための資源が効率的に使われていないのである」(137頁)。また、「現状の業務に差し障りがなく、かつもっとも手っ取り早く人員を減らせる統計部局」が、公務員数の一律削減の影響を受け、統計の質の維持の点でも問題を生んでいる。さらに、省庁ごとに類似した調査が企業や国民に繰り返されるため、「協力を拒むケースが広がり始めている」(138頁)。

4 理科で自然とうまく付き合う
▼自然の偉大さを知る
・将来の職業と結び付け必要性を議論すると、「理科が嫌いなら文系を選択すればいいという……発想」を後押しし、理科離れ・科学離れを助長してしまう(140頁)。
▼自然からの恩恵を知る
・地球が稀有な惑星であることを教える、害獣や害虫とされる生き物が生態系で果たす役割を教えるなどして、自然からの恩恵や相互依存性についての学習。
▼環境問題は理科教育で
・環境問題を意識して一人ひとり行動してもらうには、コスト意識を持ってもらう(経済学的なアプローチをする)よりも、化石燃料の生成過程や、現状の地球環境ができあがる過程などを学ぶことで、自然からの恩恵や、「自然界の一員としての人間」という意識を育むことに注力した方がよい(145頁)。

5 英語はまず聞くことから
→ニーズないし学習目標の再定義については、一切触れられていないので省略

6 芸術も体育も消費者教育
▼芸術はまず消費者を育てよ
・音楽や美術は、特に上手でも好きでもない子も一緒に制作に参加させられ、上手な子と同列に陳列される。それにより、音楽・美術嫌いが生まれることはままある。
・「美を感じる感性には知識も教養も身分も関係ない。美は万人のものなのだ。美を素直に理解して、美に接すれば接するほどその感性を磨いていくのは子どもである。その感性を育てるのが美術館なのだ」(154頁)。金沢21世紀美術館の蓑豊の言葉に、筆者は大いに賛同。

7 個人のための家庭科
▼家庭科学習に必要なもの
・小学校の教科書には、家族観や生活パターンなど「『あるべき論』のにおいが漂っている」。「価値観の押しつけをしない」ことは、現実の変化に即していないし、意味をなさない(167頁)。
・家族という組織は、一枚岩ではない。「家族という組織を維持するためには」、ある生活様式を協働的に「実行するためのインセンティブ」を考える必要がある。「組織運営」について考えねばならない(168頁)。
・子どもが自分自身を守ることができるように、人権教育を徹底した方が良い。自身の位置を相対化し、親(毒親?)から距離を取るためにも重要である。
 


第四章 これからの社会、これからの教育

1 今こそ個人尊重を

・教育は大人が子どもにするものである以上、大人の都合の良いものになりがちである(戦前・戦中を見よ)。 
・現代の個人化社会を支えるのは、明らかに、技術進歩である。家族でばらばらに過ごすこと(例えば食事を別個にとること)が「それほど非効率ではなくなったのだ」(175頁)。 
・この個人化の流れが「社会への求心力を失わせるのではないか」という危惧がある。右傾化や愛国心の強調はその典型だろう。筆者はその動機に理解を示しながらも、「個人化へむけて大きく舵を切った時代の流れに逆らうことは難しい」としている(177頁)。 
・個人主義の蔓延が社会道徳を衰退させたと言われるが、この意見は的を外している。本来の個人主義は孤立主義でも利己主義でもない。「すべての人間が互いの存在を尊重することである」(178-9頁)。より徹底した個人主義が必要である。日本国憲法の自由主義的な精神は、これを理念化したものではないだろうか。



2 徳育より宗教教育

・福沢諭吉の『文明諭之概略』によると、「徳」の効果は近親者にだけ及ぶ。それに対して、「智」は広範囲で、社会生活を一変させたりもする。この対比を踏まえると、徳育の科目化が不毛であることは明らか。 
・福沢は、徳も智も公共化されねばならないと説く。しかし、私徳を公徳へと変換することは難しい。公的権力による徳育は戦前のような全体主義化にも近接しかねない。智を伴った伝統宗教のように、徳を公的なものに変換した例に注目することが有用だろう。 
・公徳の内実は大まかに収斂しており、世界的にも大差はない。筆者によると、重要なのは人間の不完全性――「人間の愚かさや弱さ」(188頁)――を学び、衝撃を受け入れられるほど心を柔軟にしておくことである。それにより、自他への思いやり、謙虚さ、寛容性、自己承認を育て、結果的に道徳心を形成していくことこそ目指されるべきである。 
・「道徳を教科化し、モラルを子どもに押しつけることは、知的のみならず道徳的にも完全な人間を目指すよう指導するようなもので、子どもの心の鍛錬という点からいえばまったくの逆効果である。世の中はますます窮屈になり、ルールを守らなければならないと心が固くなり、同時に傷つきやすくなる。その一方で、ルールに厳格な人はそうでない人を軽蔑し、馬鹿にするようになるだろう」(188頁)。 
・現代人がキレるのは、実際には「多様な価値観が氾濫」している社会であるにもかかわらず、「モラルという一定の狭い枠に人間を押し込めようとしていることの弊害ではないだろうか」(188頁)。



3 恋愛は立派な学科

→前節の内容を、子どもにとって身近な「恋愛」で置き換えているだけなので省略



4 「自立」とは何だろうか

・現代、自立は経済的自立=働いていることと同義になってしまっている。これは、実情に即していない。「なぜなら日本では人口の約半数が働いていないからである。働かなければ自立できないのなら、日本人の約半分は自立できていないことになる。こんなおかしいことはない」(195頁)。 
・障碍者は、自分の経験の範囲が、「養護学校という狭い範囲」での友人関係か、家族といったものに限定されてしまっており、自分自身に関する知識や、消費行動のための情報が不足している(198頁)。経験値を得る機会が限られていたために、自分の意志で自分の生活を豊かにすることができない。
・自立とは、「自分で選択肢を探し出し、その中から自分にとって最適なものを選び、自ら実行する」ことである(199頁)。「家事や育児の一切を妻に任せ、その見返りとして家計の財布を妻に渡している夫も自立できていない人間の典型例だ」(201頁)。だそうです。



※「子どもは実家に留まり続ける限り、たとえ働いていても、親に生活費を渡していたとしても自立した人間とみなすことはでいない。親に朝起こしてもらったり、部屋の掃除をしてもらったりするのは論外というべきである。自ら主体性を持ってひとつの家計を運営してこそ自立なのだ。逆にいえば、わずかな年金で生活する重度の障害者であっても、実家を出てグループホームで暮らし、限られた収入をどう配分すべきかを自分の頭で考えて生活していれば立派な自立といえる。」(201頁)

→今度は、物理的自立+経済的独立性を「自立」と短絡しているように思える。本書の「自立」の用法はあまりに多様なので、前述の意味(199頁の例)で理解するのが生産的だろう。