2017年12月11日月曜日

大槻香奈個展「生の断面、死の断片」(2017)の感想

東京のアートコンプレックスセンターで開催されていた、大槻香奈さんの展示「生の断面 死の断片」(11/3-12/3, 2017)に行ってきました。

大槻さんの関わって展示を観に行ったときは、何らかの感想を書くことにしています。(例えば、「揺らぎの中のせいとし展」(2017)など)



そうして、感想を書くのは、大槻さんの展示空間の中で、そこに描かれ、構成されているものを自分なりに線で結ぶことを通じて、自分が考えたかったけれど、言葉にしていなかったことを明確化できるような感じがあるからなんです。

さておき、少し長くなると思いますが、お付き合いください。
使用した写真は、大槻さん自身がツイッターに挙げているものに限りました。
(以下、敬称略)




線を引くこと


『精霊の守り人』や『獣の奏者』で知られる作家・人類学者の上橋菜穂子は、『物語ること、生きること』(講談社文庫)の中で、こんなことを言っている。

物語は、見えなかった点と点を結ぶ線を、想像する力をくれます。想像力というのは、ありもしないことを、ただ空想することとは、少し違う気がします。こうあってほしいと願うことがあって、どうやったらそうなるのだろうと、自分なりに線を引いてみること。その線が間違っているかどうかは、きっと、現実が教えてくれるでしょう。 (p.184)

この心訴える表現を、小説のような「物語」に限定する必要はない。
というより、ここでは、「点と点を結ぶ線」という表現の方に注目しておきたい。上橋曰く、「私たちの想像力が、見えなかった点と点を結ぶ線を引く」。

こうした線は、私たち人間が、そのままでは無秩序でつかみどころのない世界を、取り扱うことのできるものに変えてくれる。
線というメタファーは、私たちが状況を整えるためになくてはならない道具立てだと言ってもいい。

一例を見よう。上橋は、国際アンデルセン賞を受賞という自身にとっては青天の霹靂のような体験を、タヌキに化かされているようだ、と述懐している。
でも、まだ、今でも手賀沼(千葉県)のあたりに住んでいるタヌキにだまされている気がします。朝起きたら、私の頭の上に木の葉が乗ってたらどうしようって(笑) ハフポスでの2014年のインタビュー

不可解な出来事を、キツネやタヌキのしわざにするということが、かつて日本の各地で行われていた。冗談としてではなく、説明しかねる出来事に対する納得のいく説明として、そうした論法は、幾度も使われてきた。
(内山節は、そうした説明が、20世紀後半に機能しなくなった、と指摘する。cf. 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』

こちら側の秩序で説明がつかないものを、あちら側のせいだとして説明し、動揺した状況を静めようとする。線引きは、あらゆる意味で、私たちの生の基本にあると言っていい。


このとき、人間の住む「こちら」と、キツネやタヌキの生きる不可解な「あちら」とが線引きされている。
こうした見解を要約するような言葉を、社会人類学者のエドマンド・リーチは残している。
目に見えるむきだしの荒々しい自然は、無数の無秩序な曲線のごたまぜである。一直線に伸びる線もそこにはないし、規則性のあるどんな種類の幾何学的かたちもないに等しい。しかし、文化という人間によって作られ、飼いならされた世界は、直線、矩形、三角形、円などのさまざまなかたちをそこかしこに含んでいるのである。(Leach, Culture and Communication, Cambridge Univ. Press, p.51)

とはいえ、人類学者のティム・インゴルドは、「この意見は一見してかなり常軌を逸している」として、『ラインズ:線の文化史』でコメントを加えている。
「自然世界にはあらゆる種類の規則的な線と形態が満ちあふれている」し、「人間という居住者が生を営みながら制作するあらゆる線(lines)のなかに、まったく規則的なものはほんのわずかしかない」(工藤晋訳、238頁)。
インゴルド曰く、自然の生み出すライン、人間の文化が生み出すライン、そのいずれもが、それなりに即興的で荒々しく、それなりに規則的で整っている、というわけだ。
「自然は直線を憎悪する」と記したロマン派の建築家・造園家のウィリアム・ケントの言葉には、確かに一片の真理がある。しかし、それは事態の半分にすぎなかった。



線で囲うこと


以上のような話は、前置きにすぎないが、大槻の作品に沿うような道具を提供してくれている。

「揺らぎの中のせいとし展」でも展示されたこの作品には、格子が重ねられている。

「選び育つ」

ミシェル・ド・セルトーは、近代作家を世界から隔たって、孤立した主体とみなした。インゴルドは、セルトーの見解を印象的な言葉で要約している。

目の届くかぎりあらゆるものの主人である作家は、植民地生活者が地球に、都市計画者が荒れ地に対峙するがごとく、白紙に対峙して、その上に自らの制作を重ねていく。植民地支配された空間に社会がつくられるように、また、地図で囲い込まれた空間に都市がつくられるように、書かれたテクストはページという空間のなかで制作される。テクストとは、制作物――組み立てられ、つくられたもの――であり、以前何もなかったところに(あるいは、あらかじめそこにあったものは何であれ、その過程で撤去されて)築かれるものである。 (インゴルド『ラインズ』35頁)

インゴルド曰く、「表面とそこに築かれる構築物の所有権を主張する」点は、中世の西洋の制作物とは根本的に性格が異なるとしている。
大槻の絵の中の「囲い」は、そうした「近代的」性格を持っているのだろうか。


「水の窓」

この絵では、格子が途切れていたり、眼の下に隠されて目立たなくなっていることがわかる。
いや、それ以上に、線は揺らいでいるし、厳密な意味ではまっすぐとは言えない。
少なくとも、CADなどで引く線や、エクセルが各セルを囲う線とは大きく違っている。


小さい頃に遊ぶとき、「ちょっと待って」(関西弁的に言えば、「ちょいたんま」)と、おにごっこなり、かくれんぼなり、色鬼なりの中断を申し出るとき、足先で地面に円を描くことがあった。
そこが「無敵ゾーン」になるという印。
あるいは、両手を自分の肩に添えるように、クロスさせて、同じ言葉を言うという作法もあった。
自分の身体に、腕が作るバツ印を重ねることで、「わたし」を守り、中断することができるという証だった。
いずれも、「わたし」や「わたしのいる場所」を囲ったり、秩序ある線を重ねることで、「こちら側」を守ろうとする原初的な発想の現われのように思える。

そうした発想は、「家画」にも垣間見える。

「家画」

しかし、赤の枠を見ればわかるように、ここでは、囲うことそのものが頓挫している。囲おうとする、線を引こうとする欲求だけは残しながら。
世界を整え、秩序を維持したいのだが、それを完全に果たすことはできない、というように。



線を忘れる、線を裏切る


小さい頃、遊びに興じる子どもは、必死に線を引くのだが、そうして引いた線の多くを、人は忘れているだろう。
大槻は、会期中に、こうつぶやいている。

会期中に作品がじわじわ変化している事や、24時間でアーカイブが切れるインスタライブで作品解説していたりするのは「あれ、前どんなこと言ってたんだっけ?」みたいなものが特に今回の展示では必要だと思ってるから。どこまで実感出来るのか、覚えているか、大事に思うのか 2017/11/23

私たちは、知らず知らずのうちに、ありうる無数の可能性の中から、自分の引こうとする線を選び、線を引いている。

「消えないように線を引く」

この写真と併せて、「勢いのある線にみえるかもしれませんが、面としてじっくり色を乗せながら描いています」と書いている。
「私はやはり、クッションや絨毯の柄、あと線香、植木鉢のような形や、墓石のような塊を描いた時に、家を感じるようです」と続けられていることからわかるとおり、それは、慎重に選ばれ、引かれた線だ。2017/11/16
(私たちは、この言葉を、「選び育つ」の絵に添えられた、「選ばないと育たない」という言葉に、直接重ねて読んでいい。育つことには、選ぶことが、線を選ぶことが、付きまとう。たとえ、近代的な成熟とは異なる姿であっても、そのとき何かが「育って」いるのかもしれない。)


「かがみ」

少女の顔や胸のあたりを、はっきりと引かれた、不規則な楕円が取り囲んでいる。
画像が小さいために確認しづらい人もいるだろうが、そうした取り囲みの線を越えて、少女の絵は、展開されている。

この少女に重ねるように誰かが引いた線は、当の少女によってはみ出されている。
実は、こうした展開は展示内で執拗に繰り返されている。

「宿」

家を守るように、鰻のように描かれた紐のセクションと、家のセクションは、色で作られた境界により分割されている。
とはいえ、その家の切っ先は、海底のような濃紺のエリアに突き出して展開される。

他にも類似の目立った例は、枚挙にいとまがない。
展示空間、右方の両側に飾られていた長く大きい二つの作品は、継ぎ合わされた紙であり、それにより作られた格子状の模様に沿っているかに見えながら、各所で、そうした線引きを越えていくようなモチーフが描き込まれている。
(以下の写真に写った、長い作品にも、「格子」がある。)



アメリカの哲学者・心理学者のウィリアム・ジェイムズは、私たちは、規則的な事物を探しながら生きていると考えた。
点と点を結ぶ、見えない線を引きながら、私たちは世界に秩序を作り、名づけ、数えたり取り扱ったりできるものにしていく。
しかし、話はそれで済まない。

私たちが探すのは、もっぱら規則的な類の事物であり、それを器用に発見し、自分の記憶に保存していきます。それが他の規則的な類のものと共に蓄積され、その集積が私たちの百科全書を埋めるのです。しかし、規則的な事物の間にも周囲にも、誰も一緒に考えたこともない諸対象の、私たちの注意を未だ惹きつけていない諸関係の、未確定で名の知れない混沌(an infinite anonymous chaos)が横たわっています。 William James, The Varieties of Religious Experiences, Dover, p.439

私たちが引く線を、線を重ねられた対象は常に裏切っていく。
私たちは、何か中身のあるものを取り扱っていると信じ、日常を送っているのだが、それは勘違いかもしれない。
本当は、不可解で規定されない混沌、私たちの知らない秩序が、そばに蠢いている。



構成する/侵入する断片


ティム・インゴルドは、フリーハンドで線を引くときと、定規を使って線を引くときを区別している。少し長いが、見ておこう。

徒歩旅行(wayfaring)の場合、旅行者はある場所に到達してはじめてそこに至るまでに自分が辿った経路を把握したと言える。歩いているあいだずっと彼は、進むにつれて変化しつづける眺望や地平線と連動する小道に注意を払わなくてはならない。あなたがペンや鉛筆を持つときも同じである。書くあいだずっと、書き進める方向に注意しながらそれを調節する必要がある。だからいくらか捻じれたり曲がったりすることは避けられない。輸送手段(transport)を用いる場合、徒歩旅行とは対照的に、旅行者は出発前からすでに経路を設定している。旅行とは、ただその筋書き(plot)を実行するだけのことだ。二点を結ぶために定規でラインを引くときもまったく同様である。定規をそのまっすぐな縁が二つの点に接するように置くだけで、ペン先や鉛筆の先端は、描かれる前から既に完全に決定されている。(中略)定規が使われるや否や、徒歩旅行をおこなうペンの本質であるリスクの高い技は、まっすぐ目的地に向かう確実な技へと変化する。  インゴルド『ラインズ』248頁

インゴルドは注意深く、現実の複雑さに注意を払っている。近代的な輸送(transport)も、完璧・理想的な直線ではなく、実際は常に「徒歩旅行の要素」を含んでいる。
同様に、「完璧にまっすぐな直線を――定規を使ってさえ、引くことなどできるものではない」。
定規がずれるかもしれず、手の動きでペンの角度が変わるかもしれず、ペン先にかける圧力を一定にすることは困難だ。そもそも、現実の定規が欠けたり歪んだりしていない保証はない。
(興味深いことに、「さらに言えば、ラインを引くには時間がかかる」と当たり前にも見える指摘をインゴルドは強調しているのだが、話が長くなるので割愛しておく。)

ここから導き出せる教訓は、私たちが、何らかの対象を、つまり、世界を把握しようとすべく、世界に描き込む線、境界線は、徒歩旅行のように曖昧で揺らいだ要素を備えている、ということだ。
恐らく、大槻の作品は、これを地で行くものだ。

「柱」


先に見た、「宿」という上下で色分けされた作品では、上に鯰か鰻のように、黒く曲がった線が描かれていた。
そこから示唆されるのは、そうして描き込まれる線自体が、時折人間の理解を越えて、動き出す「あちら側」のものかもしれない、ということではないだろうか。



異なる時間に見た同じ風景を張り合わせたような、ばらばらの時間に、ばらばらの人が見た思いを張り合わせたように背景は区切られている。
その区画化された秩序同士が、曖昧に溶け、混じり合い、重なっている。境界侵犯が起こっている。
(私は、2015年の大槻の個展「わたしを忘れないで。」を捉えるために、境界侵犯という言葉を使用した。そちらも参照のこと。)

ここでは、それ以上に、少女を線が貫いていることに視線を振っておきたい。
何かを別のものと区切ることで、私たちは世界を理解している。線を引くことは、こちらとあちらを分けたり、わたしを守ったりするためのものではなかったのか。

アメリカの哲学者、スタンリー・カヴェルは、エマソンの次の一節に注目している。

「私たちが最も固く握りしめる(clutch)とき、どんな対象も私たちの指から滑り落ちてしまう。私は、この虚ろさと儚さを、私たちの条件の最も不格好な(unhandsome)部分とみなす」とエマソンは書いた。  (S. Cavell, Conditions Handsome and Unhandsome, Chicago, p.38)

ハンサムといっても、イケメンとは(さしあたり)関係がない。ハンサムには、「整った」という意味があり、そこから、「格好」とか「結構」のよさという意味合いが導かれている。
この「手(hand)」のニュアンスに注目し、手の中に――手の格子に――収めたそばから、それをはみ出していくという世界の捉えどころのなさ、究極的な掴み切れなさを、人間である限り避けることのできない条件とカヴェルはみなしている。
私たちは、不格好な(unhandsome)な条件から逃れられない。

今あるのと、異なる秩序が存在する、という想像力を駆使するものとして、私たちはホラーというジャンルを知っている。
「ホラー」、あるいは、「怪奇的なもの(the weird)」は、「私たちの考えているのとは違った仕方で、世界は動いているのかもしれない」という感覚に訴えるものに他ならない。

ある種の「ホラー」が、鑑賞者のために、謎解き的に構成され、それゆえ精緻で確固たる秩序として描かれてしまうのに対して、大槻の描く、異なる秩序(たち)は身近さと突飛さがあり、それらの侵入は、そっけなさで特徴づけられているように見える。
私たちは、日常的に不可解なものに侵入され、それらと相互浸透している。そうした感覚を彼女の絵は表現しているように思われる。

大槻の絵では、フィリップ・K・ディックほど異常でない仕方で、筒井康隆ほど突き抜けない仕方で、ぽこぽこと「何か」が「何か」溶け合っている。
(もし、そう確言してよいなら、以上のことが、大槻が本の表紙を描くとき、しばしばホラー小説のそれを描くことになるのかの説明になっている。)



何かが侵入すること、可能性がこびりつくこと


思えば、大槻の絵には、異なる秩序の侵入、異質なもの(かもよくわからないもの)がぽこぽこと侵入する絵が多数あった。



「家05」




規則性があるのかないのかも判然としない図形、線、面、色、不可解な生物(?)が、どんどんと侵入し、境界を揺らがせている。
いや、そもそも、それが人間の生なのではないか。

様々な、異なるリズムを持った断片に取り囲まれている。私たちは線を選び、線を描く。しかし、そのときですら、線を「完璧に」引くことはできない。
そうした線を裏切るように、世界は展開していくし、その線自体が、私たちを離れ、私たちの生に侵入し、折り合い、重なっている。





小さな四角を反復し、格子を構成するように、多くの断片としての絵――絵自体が、何らかの秩序に従って作られたもので、それが寄り集まって何かを構成しているのであれば、そう呼んでいいだろう――が、並べられることで、何らかの秩序を構成しているかのようだ。
(恐らく、大槻の展示自体が、そうして線を描き、秩序=星座を描くことでもあるのだが、話が長くなるので指摘に留めておく。)
(大槻の「整列」や、グッズの陳列は、秩序維持のジャンクな戦略として提示されているという見解は、「神なき世界のおまもり」(2016)に関連して書いたことがある。)

最も特徴的なのは、「ゆめしかちゃん改」だろう。


「ゆめしかちゃん」を取り囲むのは、無数の器であり、読み取ることもこんなんな文字の断片だ。
私たちがグッズを買い、絵を買い、服を買い、電子機器を買いそろえて、ツイートで自分を構成するとき、私たちは、「(現に)そうであるわたし」と、「(現に)そうではないわたし」を線引きしている。
数々の可能性を捨てて、今の自分を維持・構成しようとしている。
そして、そのとき、秩序維持に使うものたちは、他人にとって取るに足らないものであることが多い。砕け散った文字のように。

しかし、フジツボのように、ゆめしかちゃんのベッドや、ゆめしかちゃん自身に、色や図形が侵入しているように、それとは異なる無数の秩序が、彼女に侵入し、張り付いて、溶けている。
それを取り除くことは難しそうだ。

このこびりついた無数の何かは、「そうではない」として忘れてしまった秩序の断片、自分が描きえた秩序の欠片だとみなせないだろうか。
それは、引けたかもしれない線かもしれず、誰かが同じものを見て引いた線かも知れず、かつて自分が引いた線かも知れない。
私たちが「現実」として小ざっぱり収めている枠のすぐそばに、こびりついた可能性の断面を垣間見ている。おどろおどろしく、蠢く可能性の欠片を。

私たちは何かを選び、線を引き、当てはめるが、現実がそれに収まることはない。
常にそれを裏切っている。線は越えられる。時に忘れられ、放棄される。
しかし、漏れ出し、侵入し、こびりついた秩序は、今手にしている秩序を破壊することなく侵犯し、私たちの生を取り囲んでいる。
(多分、そうして「わたし」の境界を揺らがせて、それは、いつでも変化しうるし、変化するものだということを思い出させ、変わるよう誘っている。)



この絵と共につぶやかれた言葉はこうだ。

見た目だけじゃなく自分で描いていて退屈でない線ってどうやれば出てくるんだろうと模索している感じもあり。。空虚さを描くには線と向き合う必要がある 2017/12/2)




追記:
2017年12月、12-27日、伊丹の「創治郎」にて、大槻さんの個展「がたんごとんひるね」が開かれます。

2017年11月26日日曜日

agoera個展「Missing」の感想

以前から気になっていたagoeraさん個展「Missing」が大阪のondoで開かれていたので、みにいってきた。


ここに表示する絵は、ondoのオンラインストアに表示されているもの(=買える)、ondoのツイッターに挙がっている写真など、ネットで見られるものに限っている。
以下、敬称略。




agoeraの絵は、記憶と同じくらいぼやけている。その感覚は、いくつかの絵を見れば共感してもらえることと思う。
実際、「懐かしい」と感じたり、「喪失感」というワードでagoeraさんの絵を特徴づける人は多いらしい。そうした感想は、この「ぼやけ」に由来しているのだろう。

Village


遠い記憶のようなぼやけは、古すぎて誰が撮ったのかも忘れられた写真を見るかのように 、これらの絵をみるよう告げているようにも思われる。

窓辺#03

今、「写真」と言った。アメリカの哲学者ウィリアム・ジェイムズの文章の中に、こんな一節がある。
装置の外側から見ると、ステレオスコープあるいはキネトスコープの画像(pictures)は、立体性、動き(the third dimension, the movement)がない。動いているとされる急行列車の見事な写真(picture)を手にしたとき、ある友人が「この写真のどこに、あのエネルギー、つまり、あの時速五十マイルがあるっていうんだ?」と言うのを聞いたことがある。William James, The Varieties of Religious Experience, (Dover, 2002) p.502
 現前している対象を知覚する私たちが、その対象から感じ取る「感じ(feeling)」を、写真は奪い去ってしまう。それは、写しにすぎない。あるいは、ジェイムズのよく使う言い回しを借りれば、「原文」を「翻訳」したものでしかない。


Church


だとすること、これらの絵は何の「翻訳」だというのか。「原文」は何なのか。
ストレートに答えを探す前に少し寄り道しよう。

I'll wait for you

agoeraの絵には、女性が描き込まれることが多い。それは、『草枕』の主人公のように、どうしても動き出す女性を「絵画的な平面」に押し込むことのようにもみえる。
画中の人間はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立体的に動くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起こったりして面倒になればなるほど美的に見ている訳にいかなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起こらないようにする。
こうした欲望を持った「画工」を主役とする『草枕』は、「図式的に言えば、奇矯な三次元の演劇的女性を美しい二次元の絵画的女性に変換したところで」閉じられることになる(福嶋亮大『厄介な遺産』59頁)。

寄せては返す

これらの文章は、まったく異なる文脈であるにせよ、写真のように見ることや、絵画的な平面に落とそうとすることは、「三次元」や「動き」を抑え込む役割を果たしかねないことを示唆している。

こうした特徴を、写真や絵画というメディアに本質的に帰属するかどうかは問題ではない。 写真的・絵画的な平面に紐づけることができるような、「美的な一瞬をとらえたい」という欲望を見出すことができさえすればいい。

茂る

 一瞬を切り取り、平面に収めるという欲望は、必然的に、「立体感」や「動き」を対象から奪い去り、原文の翻訳にすぎないものへ還元してしまうのだろうか。

つまり、agoeraは、ご多分に漏れず、平面化する欲望にとらわれているのだろうか。「focus」というタイトルの絵を、まさにこうした欲望の反映とみるものがいてもおかしくはない(が、これは鑑賞者に向けたショットであることに注意する必要がある)。

以下のような、植物がモチーフとなっている絵をいくつか思い出すといい。

浮かぶ光

こうした植物の絵は、記憶と同じくらいぼやけていることで視覚的な対象として平面で静止しない。
この植物に典型的にみられるように、agoeraの絵は、「超然と遠き上から」見ることを許さない、つまり、絵の中で「動き」を読み取るよう求めているように思える。

この絵には、「光」という視角的なタイトルがついているものの、「動き」を読み取った者の中には、音まで聞こえさせる。あるいは、絵次第では、風の冷たさまで。

Nancy

ともかく、agoeraのぼやっとした絵(という言い方はすごく貧弱だけど)は、「立体性」や「動き」のある瞬間を、その「感じ」ごと封をする装置ではないだろうか。
あるいは、そうした「感じ」を生じさせるための装置ではないだろうか。

agoeraの描こうとする瞬間が、切り取られた「平面的な一瞬」であるというより、gif.動画のようなシーケンスであり、その場に居合わせることで感じられた「感じ」を思い起こさせるものだということは、フライヤーか何かにも使われた下の絵からストレートに感じられるだろう。

Dance

agoeraの絵は、平面化された動きのない一瞬を保存しているわけではない。
むしろ、agoeraの絵は、かつて=そこに=あった「感じ」を、誰かによって生きられたシーンを、観る人の中に再演する装置のように私には思える。

このような視点に立つと、agoeraのぼやっとした描き方は、そこにあった「立体性」や「動き」を保存するために呼び出された戦略だと言えないだろうか。

要するに、この美的な瞬間を平面に閉じ込めたいという『草枕』的欲望と、「立体性、動き」などの「感じ」を奪い去ることへのジェイムズ的な心配を両立させるための方法として、「ぼやっとした絵」が描かれている、というお話。

そんなこんなで、いい展示でした(11月26日で会期はおしまい)




2017年9月12日火曜日

岡本健『ゾンビ学』(人文書院)を読む:近代、移動、資本

いつもお世話になっております。
ミルチこと、某院生です。

兼ねてからお知り合いだった、観光学者の岡本健さんの『ゾンビ学』(人文書院)を本日ようやく手にすることができ、読んでいます。
多くの書評やレビューの類はあるので、取り留めもない考えや思い付きを書くことにしたいと思います。


1.ゾンビと私


古めの知識人とか、大学教員が、かつてよく書いていた文章として、「〇〇と私」というたぐいのものがありました。
「寺山修司と私」とか、「マルクスと私」とか、そういう感じのタイトルは五万とあります。
そして、この種のタイトルの文章が苦手でした。

このタイトルの文章に反発していたのは、「お前の個人的な話なんてどうでもいいよ!!」「研究の話してよ!!」と思うからですね。
でも、ここはブログなので好きに書くのです。

何を隠そう、私はかなりゾンビが好きです。
小説とかだと、幽霊の方がモチーフとしてはずっと好きなのですが、ゾンビは映像としてかなり好きです。
幽霊+ゾンビ好きだった私は、学部時代に「幽霊」と「ゾンビ」を比喩的なモデルとして、現代のコンテンツ環境を論じられるのではないか?と考えていました。

当時どんなことを考えていたかを正確に再現するのは難しいのですが、多分、こんな感じです。
二次創作(n次創作)ありきのコンテンツ状況を切り分けるとき、二つのタイプがあるのでは?というもの。具体的には……

・幽霊型

二次創作の多さ、濃さが、「源泉」に当たる人間・場所や「原点」に当たるソフトなどの卓越性をますます高めるようなコンテンツ
→ある種の作品が反復されるごとに、色んな幽霊が「憑く」イメージ。

例としては、初音ミクを初めとするボーカロイド、それから声優(演じてきた各キャラクターが声優に「憑く」)。
上には、一次の「創作」を含めませんでしたが、もしかすると該当するかもしれません。
基本的には、人間や場所、ソフトウェアなど、それ自体が「器」のような、「空」のような存在を念頭に置いていたはずです。

・ゾンビ型

それに紐づく作品が、元の作品に「似た」「別の」ものとして、大量に存在していること。
フロイトの「不気味なもの」のイメージです。似たものは、そのものではないので、あくまで類似した存在であって、原作を根本的に脅かすようで、原作の存在感を際立たせているところがあると思います。
人間に似たものであるゾンビの残虐な非人間性が、かえって人間の非人間性を際立たせる、という描き方をしたゾンビ作品が無数にあるように。
あるいは、原作が噛みついて、どんどん感染者(=二次創作)を増やしていくイメージだったかもしれません。

どんなことを考えていて、これをどうするつもりだったのかはわかりませんが(笑)、でも、それくらいゾンビが好きだったということです。

*毎日新聞で、関連インタビューがありました。*
*日経新聞で、関連インタビューがありました。*


2.ゾンビと移動性


第二章「フレームワーク・オブ・ザ・デッド」の移動/立てこもりの話が既に面白く、今準備している研究発表の原稿と似ているところがあるので、思考が走り出してしまいました。

今準備している原稿の、ほんの一部ですが、要約するとこういうことを言っています。

前近代は、全てが「一望できる」範囲に収められていることが重要で、人間の記憶や注意などの能力が及ぶ範囲に、人口や国土などが制約されていた世界だった。
しかし、近代は、新しい技術・メディアの誕生、移動の自由、交通革命、メディア産業(特にジャーナリズム)、国際関係の成立などによって、「閉じられた地域」を越えて、様々な情報が各個人に押し寄せている。
ということは、自分の直接見聞きしない、観察しないことについて何らかのイメージを持つことを日常的に強いられる時代なんだ、今は。

こういう感じの話です。
(この要約は、W.リップマンのメディア論の前提になっている基本認識の一つに相当します。)

『ゾンビ学』52頁の「ゾンビコンテンツの時間軸」を前近代世界に当てはめると、面白いことが言えそうです。
前近代世界では、多くの人が閉じられた範囲で生活を営んでいて、腰を下ろしていた。いわば、集団的な引きこもりです。
そういう場所で、「ゾンビ・アウトブレイク」が起こったらどうなるか。ゾンビが根絶できないとしたら、ほとんどの人がゾンビになってしまうはずです。
しかし、せいぜい人口は知れているでしょうから、たちまち事態(=ゾンビ・パンデミック)は収まるでしょう。
ゾンビの側も、食すべき人肉が限られているので、(ゾンビが改めて死にうるとすれば)食べるものがなくなると、すぐに死に絶えるかもしれません。

こういう世界で、新たにドラマが起きうるとすれば、既に大半がゾンビ・パンデミックでゾンビ化したその村・町を、「旅人」や「行商人」のような人が訪問したときではないでしょうか。
どういうことかというと、大抵のゾンビものでは、どこかのタイミングでは、「人間が新たにゾンビになりうる」という拡大可能性をストーリーに織り込まねばならないからです。
これは、「ロンドンゾンビ紀行」みたいなコミカルな作品でも同じだし、『さんかれあ』みたいな作品でも同じです。
大抵は、誰かがゾンビにならないようにうまく収めていたとしても、時々は「ゾンビになる(かもしれない)」という緊張が求められるからでしょう。

翻って、集団的に引きこもる前近代世界で「ゾンビもの」が成立しづらいのは、その系の規模が小さく、また閉じられているからだと言えそうです。
「G→W→G'」的な意味で、ゾンビものは、常にゾンビになりうる新しい人間が次々と投下されていくことで駆動されていくのかもしれません。(ここでは、スリルが生み出されさえすればいいので、実際に誰かがゾンビになってしまう必要はない)

だとすると、前近代では、新たな人間が資本投下されづらい、新陳代謝(の可能性)が生じづらいので、描きにくいと言えそうです。
新たな感染可能性が、物語にサスペンス(緊張)を与える、と言った方がわかりやすいでしょうか。前近代は、系が小さく閉じられているので、新しい感染可能性が小さくなっている。

実をいうと、これを実際の「近代」「前近代」に対応させる必要はなくて、系の「開/閉」と、その規模の「大/小」で語ることのできる問題だと思います。
多くのゾンビもので、登場人物たちが次々と移動するのは、物語の流れからそうするわけですが、この観点から見ると、新しい感染可能性を求めて移動させられていることになります。

以上のざっくりした話を踏まえると、交通革命が起きた19世紀以降、農村から産業労働人口が流入して都市化した時代というのは、系の「開/閉」の面から言って、非常な画期だったと言えそうです。
(107-9頁辺りは、電話やラジオというメディアがゾンビ作品内で果たす役割が描かれていて、系の「開/閉」を考える上で、重要な取っ掛かりになりそうです。
また、「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」などを論じた246-53頁も、「移動」ないし「立てこもり」を論じていて、直接つながりそうな話があります。)


3.フードツーリスト


この観点から最も興味深いのは、ゾンビをフード・ツーリズムの実践者に喩えた11章「死霊のたびじ」です。
この見通しは、二つの観点から面白く読みました。

①資本主義の原理をいくつものレイヤーで反復している点を描き出していること。
新たな感染可能性を要求するゾンビ作品/新しい食事を要求する飢えたゾンビ/新しい商品を要求する飢えた消費者/新しい情報を求め続けるツーリスト
マルクス言うところの「G→W→G'」のイメージです。

②それが「ツーリズム」つまり大衆観光以降の話を念頭においている以上、まさに、ゾンビが近代的な問題だということに触れていること。
先に触れた、系の「開/閉」や、その規模の「大/小」という問題が、前近代と近代を分かつ分割線になっているのだとすれば、ツーリズムを通して、近代について考えている章になっています。
この画期をもたらしたいくつかの重要なメディアや技術については、ゾンビ映画との関係で考察する余地があると思います。船、電車、飛行機、新聞、電話・電信、ラジオ、それらに関する産業、移動・居住・職業に関する権利……。

あまり本文の内容に触れていない上に、すごく雑駁でまとまらない感想ですが、この辺で。
面白かったですー。


2017年8月30日水曜日

「揺らぎの中のせいとし展」(2017)@創治朗

大槻香奈さんがキュレーションした「揺らぎの中のせいとし展」(2017)を見てきました。
(大槻さんは作家としても参加されています。)


伊丹駅のそばにあるギャラリー、創治朗にて、8月11日から9月2日まで開催されています。

過去に、大槻さんの個展について感想を書いたことがあります。
個展「わたしを忘れないで。」(2015)
個展「神なき世界のおまもり」(2016)
感想と批評の中間のようなものでしょうか。
今となっては赤面なしに読めないような拙い文章ですが、それぞれの個展に関する大筋の見方は変わっていません。

こうやってみると、一年に一度は展示を観て、感想をだらだらと書いているんですね。
私は、主としてアメリカの思想と文化を対象に、研究をしています
研究なので、大槻さんと違って、私の武器は「言葉」ですし、フィールドも違います。関心もかなり違うでしょう。
それにもかかわらず、ぽんと示された展示からは、自分と似たものを感じます。
(私が展示を見ているわけだから、そりゃそうなんですが)

似ているけれど、ある程度違う。
だから、自分の位置を捉えなおして、相対化するのに、大槻さんの展示からとてもいい素材ですし、「もっと遠くに行きたい」と思ったとき、類似の中の差異が、道標になるような感じがします。

御託はさておき、展示の感想にかこつけて、少し書いてみます。
しかし、今回写真を撮っていないので、雰囲気をパッと伝えづらいところがあり、個別の作品については踏み込まないでおきます。
どれもいい絵なので、かなり正確にどの絵も覚えています。

個別の絵に言及していないので、すごく抽象的で、展示の感想ともいえないようなものになってしまいました。
この感想でいいのか


1.「作家紹介」の中の、せいとし


SNSなどでは、この展示の名前が「せいとし展」と略されています。

せいとし。

大槻さんがブログで書いているのを読めばわかる通り、これは「掛けことば」なんですね。それも二重の意味とかではなく、色んな読みの可能な。
(この文章は、展示空間でも掲げられています)

該当箇所をピックアップしてみます。
()内の名前は、その文章が解説している作家の名前で、引用文は全て大槻さんが書いたものです。

吉田の言う "夢と現実" は、言い換えれば "過去と現代" なのかもしれませんし、また今回の展示テーマである「せいとし」に沿って言うなら、"死と生"とも言えるかもしれません。あらゆるものが混ざっているところに、超現実的なものを見たような気持ちになるのです。(吉田有花)
自分の肉体をもって生を捉えるのではなく、理想世界から自分の生を見つめることは、ある意味「死」から「生」を考える事に近く、きりさきの描く理想世界に対して、鑑賞者はどこか置き去りにされた人としての心を感じるかもしれません。しかし作品に漂うその違和感こそが鑑賞者と作品とを繋ぐ鍵となり、現代日本における「生」(性)について、その考えを存分に巡らせる事ができるでしょう。(きりさき)
制作のテーマは「性と死」。そうして生まれたものは強さという概念を具現化したようなもので、実際には涙を流したり傷を負っていたりするけれど、決して負けないでいる姿勢を描いており、作品を通して、苦しみながらも戦い続ける人の生き方そのものを肯定しています。(hima://KAWAGOE)
生きる事と死ぬ事。私にとって生きる事とはおおよそが苦悩する事であり、死ぬ事はゼロになる事(なにもなくなる事)です。けれどもそれはあくまで自分自身の事であって、他人に感じる生と死はまた違った形にみえています。(大槻香奈)
中村自身が、全ては世界を維持形成するための一部分でしかないと考えている事から、作品には現象そのものが描かれており、「生」と「死」に関しても等価に扱われているような印象を受けます。(中村至宏
揺らぎの中に自分の身をまかせる時、あなたはそこでどんな気持ちでいるでしょうか、と。「都市」の人ごみの中で「静」かに問いかけます。(Ayako Ono)
大槻さんのブログと違って、展示空間に入ったときに観るであろう順番に引用してみました。
引用箇所以外にも、「せいとし」に絡めた部分はありますが、文章中に出てくる「せいとし」の掛けことばパターンはこれで出揃ったかと思います。


2.可能な「せいとし」


目の前に便利な箱や板がある人は、それで文字を打って変換してみればわかることですが、この展示の作品に絡みそうな「せいとし」の掛けことばパターンは、上に示したもの以外にもたくさんありそうです。

重複も含めて、ざっくばらんに挙げてみると……

生と死
性、都市、愛し(いとし)
静 止、生徒、詩、史、

他にもあるでしょう。
ここでは、二つのことがおさえられたら十分です。

  1. 様々な作品、多様な作品が提示されているにもかかわらず、「せいとし」という言葉から見ることで、それらの作品(・作家)が、ゆるくつながりあっていることが、「作家紹介」において語られている、ということ。
  2. そのような繋がりを可能にする共通の特徴は、「生と死」「性」「静」など、「作家紹介」に書かれたものに限らず、ぽろぽろといくつか見つかりそうだということ。

これです。

3.せいとしの、家族的類似


家族的類似(英:family resemblance/独:Familienähnlichkeit)という概念を、補助線として引きたいと思います。
ドイツの哲学者、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインがPhilosophical Investigations 『哲学探究』という本で有名にした言葉です。

(余談ですが、この概念はヴィトゲンシュタインが「考案した」ものではありません。哲学が専門の研究者でも知らない人が多いですが、この辺、英語のウィキペディアはちゃんと冒頭に書いてくれています。「家族的類似は、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによって有名になった哲学的観念である……」と。英語版ウィキでは、ニーチェから借りたとありますが、私は、ハーバート・スペンサーの教育哲学に関する本で、「家族的類似」という言葉を見たことがあります。以前から存在していた言い回しのようで、ラテン語の用例もあるようです(論文へのリンク)。)

せっかく英語版ウィキペディアに言及したので、説明もそこから引っ張ってみましょう。
家族的類似〔という概念〕が示すのは、ある一つの本質的な共通の性質によって、結び合わされていると考えられえた事物(things)が、実は、重なり合う一連の類似性によって結び合っているということだ。しかもそこでは、どんな性質も、その事物全てには共有されない。
ウィトゲンシュタインは、ゲームを例に挙げたので、私もそれでがんばってみます。

チェス、鬼ごっこ、蹴鞠、にらめっこ、じゃんけん、スプラトゥーン、コール・オブ・デューティ(COD)、ゼルダ、スカイリム、Mountain……
これら全てに共通する「本質」なんてあるのでしょうか。

CODとスプラトゥーンは、どちらもFPSですし、ゼルダやスカイリムは、どちらもオープンワールドです。それに、この四つはいずれも「(広義の)ビデオゲーム」に当たります。
けど、ビデオゲームだけがゲームではありません。チェスや将棋はどうでしょう。
ルールとプレイヤーの存在という特徴だけでは、他の社会生活とうまく区別できません(例えば、裁判はルールもプレイヤーもあります)。
さらに、ほとんど操作できないMountainというゲームはどうでしょうか。
コマなどを操作できるということで、ありとあらゆるゲームに「共通の性質」を考えるのも難しそうです。

あまりうまい説明とは言えませんが、そんな感じです。
これを満たせばいい、と言えるような「ゲームそのもの」、「ゲームのイデア」という考え方は、現実に即していないんじゃないのか、という雰囲気を感じてもらえればひとまずオーケーです。

この複雑な実情をどうやって考えればいいかというときに、頼りになるのが「家族的類似」という発想です。
「家族」というメタファーを考えてもらうとすぐに雰囲気はつかめます。(広く「親族」「親戚」くらいの範囲まで含んで「家族」と捉えてください。)
ヴィトゲンシュタインは、こう言っています。
……ある家族のメンバーに成り立つ様々な類似、例えば、体格、顔立ち、瞳の色、歩き方、気性などは……重なり合い、交叉し合っている……。『哲学探究』

父と母の見た目は、大抵、似ていないはずです。
血がつながっていないわけですから。(夫婦は似てくるとは言いますが、それはさておき…)
しかし、息子は、母の「眼」とすごく似ていて、父の髪質とすごく似ているかもしれません。話し方は母に似ているかもしれませんし、関心は父に似ているかもしれません。
娘は、母の「鼻」や「背の高さ」を受け継ぎ、父の「口」や「耳」が……

うちの家族はみんな「わし鼻気味」とか、「背が高い」とか言う人もいるかもしれません。
しかし、それも、家族の全員が当てはまっているといえるかはびみ
とはいえ、父のわし鼻度は、他の三人に比べて低いかもしれませんし、母の身長は他の三人と比べて少し低いかもしれません。
とすると、間違いなく共有している「本質」みたいなものは、ないんじゃないかと言えそうです。

ある講義録では、こう説明しています(引用する際に、わかりやすく書き換えています)。
普通、〔私たちは〕ある一般名詞が指す対象のすべてに共通な何か〔=本質〕を探す傾向〔を持つ〕。例えば、すべてのゲームに共通なものがなければならない[という思い込みだとか]。この共通な性質を根拠にして、一般名詞である「ゲーム」を、様々なゲームに適用して使っている、と私たちは考え勝ちだ。しかしむしろ、様々なゲームは、一つの家族を形成しているのであり、その家族のメンバーに家族的類似性がある。家族の何人かは同じ鼻を、他の何人かは同じ眉を、また何人かは同じ歩き方をしている。そして、これらの類似性は重なり合っている。『青色本』

要するに、家族が共有するのは、様々な「重なり合う特徴」である。
まぁ、こんな感じのイメージです。


4.本質の欠如としての「空虚」


愛そのもの、正義そのもの、ゲームそのもの、机そのもの……
様々な個別の「愛」や「ゲーム」などを貫通して、当のものを成り立たせるような、共通「本質」はなさそうだ、という話でした。

これは、哲学が古代ギリシアに始まって数千年、哲学史の流れの中で、天才の中の天才が議論し続けてたどり着いたところです。
「まぁ、ひとまず、本質とかイデアみたいなものはないって考えていいんじゃないか」と。
誰がどう言って、何を考えようと、文化や時代が違おうと、どんな工夫をして確かめようと、ともかく決まりきった「本質」なるものーーこれはなさそうだ、という主張です。
(こうした立場には、「反哲学」「反本質主義」「反プラトニズム」など色んな名前がありますが、大まかには一緒のことを言っています。)


哲学を雑な仕方で説明するのが目的ではないので、この辺で切り上げますね。

で、何が言いたいかというと、こういうことです。
「揺らぎの中のせいとし展」は、コンセプトの家族的類似で成り立っている展示だと言えそうだ、ということ
それゆえ、
満遍なく、間違いなく、みなが同じものを共有しているなんて信じていない展示だ、ということ
その限りで、
反本質主義(=本質みたいな考えに反対する立場)をとっているということ

そう考えると、大槻さんが繰り返し言及する「空虚」という概念は、「本質の欠如」のことを言っていると言えるかもしれません。

みんなが間違いなく共有する「本質」みたいなものを中心におかなくても、それぞれが似通っている「断片」を、ばらばらに共有しあうこと。
大槻さんの「かみ解体ドローイング」の試みも、そういう風に捉えることができそうです。
パルタジェ(分有)というやつです。

ピザのシェアを思い描くといいかもしれません。
それぞれが分かち合ったピザの一切れは、隣のピザと似ているかもしれません。
モッツァレラとバジルとトマトの乗ったピザであっても、ある一切れには、運悪く「トマト」が全く乗っていないかもしれません。
乗っている具材を、「共通する性質」として、分け合ったものの本質かのように語ることはできません。
そういうイメージでしょうか。

絵も出さずに、むっちゃ抽象的なレベルで話しててすみません。
(個別の作品にも、かなり感想はあるんです!
展示されていた中村さんの絵は、nearで観たときからずっと記憶に残っているとても好きな作品でした、みたいな思い入れとか、吉田さんの絵の注目すべき細部だとかをとりあげたりとか。。)


5.類似は一人で作ることができない(?)


在廊中の大槻さんとお話して面白かったことがあります。
あまり勝手に話すのもどうかと思うので、気になった話題の核心だけ取り出すと、
「私はかつて全部を一人でやろうとしていた」と仰っていました。
様々な表現を、同時に、たくさん、一人でやろうとしていた、と。

多様なことをやっても、ある人がそれをすると、「これとあれは、分野は違うけど、自分としては同じことをしていて……」と自分でも説明したくなるかもしれませんし、周りで見ている人も、「あれと、それは繋がっているんだろうな」と同一性に回収したくなると思います。
つまり、諸々の活動に共通する「本質」みたいなものを、どうしても語りたくなってしまうと思います。

もちろん、人は変わるし、成長するので、そう単純には言えません。
しかし、一人の人が「似たもの」を作っていたとすれば、周りで見ている人は「同じこと」だと判断したくなる(=「同一性」に回収したくなる)ことは間違いないでしょう。
「まぁ、同じ人のやることやし、直接どこかでつながっとるやろ」と考えたくなるとでも言えばいいのか。

自らキュレーションして、作家としても参加して、展示を構成する、というのは、チームとして作品を作っていこうとすることだと思います。
あるいは、家族として。

他者との協働すると、いくら事前・事後に打ち合わせしたところで、自分の想定と全く同じものが成果として出てくるわけではないでしょう。
あくまでも、「類似」しか構成できない。
でも、そもそも、人が一人ですることが、同一性に回収されてしまって、「共通する性質探しゲーム」を生み出してしまうのだとすれば、家族のような「類似」しか構成できないことはむしろ利点のように思えます。
(「似ている」ことは、「同じ」とは違うので。)

ツイッターでは、こんな発言もありました。
今回展示を企画したいと思ったのも、自分の作品だけでは表現したい事が形にならないと実感したからでもあるのだけど。それぞれの作家の良いところを観て欲しいという気持ちと、各作品の対比を眺めながら、なんとなく実感として「平和な時をどう生きるのか」を伝えたかったのだと思う。 #せいとし展

そこに「共通する性質」=「本質」を見出したいという人情に抵抗するために、類似をたくさん作り出して、「家族」を構成すること。
そうしたズレ、揺らぎこそが、創造性の源泉であって、予想もしないものを生み出す力であるとすれば、本質を欠いた形で、様々な「類似」を生み出していくことが、チームでやることの利点なのかもしれません。

類似しかないとしても、ただ別々に観てもつながりを見出しづらいとしても、一定の文脈を整理することで、大まかに共有していることもあるんだと伝えることができる。

(と、最近、大学教育に関する投稿中の論文で、教育活動のコミュニティ化みたいなことを言ったので、「ふむ」と考え直させられた気がします)

……と書いている、この文章は、まさに、大槻香奈という作家の「同一性」に還元しようという試みなのかもしれませんが。。笑
とはいえ、実際の個別の作品については、あまり言及していないことからわかる通り、これだけで全てを語ることができるような展示ではないと思います。

会期残り少ないですが、ぜひ。
(ちなみに、明日、8月31日はミクさんの10周年記念の日です。)

2017年1月12日木曜日

中島隆信『子どもをナメるな――賢い消費者をつくる』(ちくま新書、2007年)のレジュメを公開

消費社会論勉強会で扱った本のレジュメを公開します。

2017年1月8日に開催した消費社会論勉強会第11回「消費者教育を学ぶ!」で採り上げた、中島隆信『子どもをナメるな――賢い消費者をつくる』(ちくま新書、2007年)です。
筆者の中島隆信さんは経済学の専門家だそうです。

レジュメをまるっと公開すると、本の内容の引き写しになるので、全てではなく、一部を削除した上で公開することにします。
気になったら、書店や図書館にGOということでお願いします。

ちなみに当日は、動機や方向性はわからないではないが、各論では異論噴出という感じでした。
用語の定義の安定しなさや、論法の雑多さが目立つ本ではあるので、当然といや当然なのですが。
(例えば、一章で「インセンティブ設計」の重要性を謳いながら、各論では大して触れていないとか、色々問題のある本ではありそうです)

なお、勉強会は、京都の出町柳にて開催されており、毎回Twiplaで告知されます。毎回、読んでいなくても参加できます。
次回は、2月25日13時から、開催します。テーマは、ミニマリズム/ミニマリストです。シンプルライフについて考えましょう!

以下、レジュメです。扱ったのは、1,3,4章です。


 *




第一章 義務教育の役割


・話題は義務教育。

・いじめを解決するために、子どもにお題目(みんなと仲良くしよう)を伝えても効果がない。上下関係が地下に潜ってさらに陰湿になりかねない。子どもは上から押さえつける/教え込むのではなく、合理的な説明により、筋道立てて説得すべき。

・誰もが消費者になる。だまされないため、よい企業を育てるために、消費者教育が必要。すべての教科に消費者教育の発想を持ち込むべきではないか。



筆者による第一章のまとめ

「義務教育の目的は賢い消費者を育てることである。賢い消費者とはテストができることでもなければ頭の回転が速いことでもない。自分の人生をどのように楽しめばよいいか知っている人である。人生の楽しみ方は誰かに教えてもらうものでもないし、誰かの真似をするものでもない。義務教育における勉強を通じて自分なりの楽しみ方をマスターしていくのである。

 こうした教育は義務教育でしか実現することはできない。なぜなら、いったん愚かな消費者になってしまった人が後から賢い消費者に転身するためには多大なコストを要するからだ。賢い消費者は表層的な情報に惑わされることなく、モノやサービスの品質を見極める能力を持ち、次々と新しいニーズを生み出す。これは市場の質を高め、市場を活性化させる。まさに賢い消費者は社会にとっての大きな財産となるのである。」(48頁)



第三章 すべての学科は「役に立つ」

ニーズの明確化を

・本章は、義務教育を念頭に置いている。

・「なぜこの科目を勉強するんですか」(114頁)と子どもに聞かれたとき、教師の真価が問われる。
・筆者は「子どもが賢い消費者になるための教え方」(115頁)を提案する。

1 数学で世の中がわかる
▼数学は世界共通語
・数学は論理的思考を身につけるのに役立つと言われるが、実際は、論理的思考が得意な学生にとって、数学は有効な「表現ツール」なのではないか。
▼伝達のための抽象的な表現手法
・語学の勉強と同じように、「表現手段としての数学も言語の一種である」とみなせばよい。とすると、「使ってみて役に立つことがわかれば勉強が楽しくなるはずである」。ここでいう「言語というのは、ものごとを抽象化する手段といえる」(117頁)。
▼確率の重要性を敎える
・「確率はリスクすなわち不確実性の伝達手段である」(119頁)。「……現実に人生においてリスクは存在し、人生で危険な目に一切遭わないで済むようなことはあり得ないからだ」(121頁)。

2 「伝達力」は国語から
「読み書き」偏重の国語
・「ものごとの伝達は、基本的に『よっむ』『書く』『聞く』『話す』の四つから成り立っている。言語を学習することの目的は、この四つの手法を身につけることである」(121頁)。
・授業の効率性の観点からも、「聞く」「話す」教育はあまり重視・実践されていない。
▼「聞く」「話す」教育の重視へ
・婉曲表現が広がっていることからしても、自分の意見をはっきりと表明することへの恐怖が見て取れる。スピーク(話す)の名詞形でしかないスピーチ(発話)に、福沢諭吉が「演説」という訳語を当てた後進性は、今も現役なのではないか。
・民の側が筋道立てて広く議論をするという風土が形成されていない日本では、「民は難しいことを知らなくても官のすることに任せておけばいいという考えが染みついて」いるように思える(124頁)。
・こうした事態を招いた一因は、「聞く」「話す」教育の軽視だと思われる。
・「帰りの会」や「自由研究」も、儀礼的・アリバイ的にやっているだけで、「話す」ことの本質を捉えていない。「本来、『話す』ことには話し手によって何らかの価値が付加されていなければならない。単に調べたことを報告するだけなら、どうやって調べたかだけ教えれば誰にでも真似できることだからだ」(125頁)。
・「従来型の『聞く』教育は〔マニュアル化された〕『調査報告』」を静かにおとなしく『ごもっとも』と拝聴することであった」。しかし、本来の「聞く」ことは、「相手の『話す』内容のなかにおかしなところはないか、もしあったら質問してやろうというくらいの緊張感を持って聞かなければ」ならない。その際、「独自性」「論理性」「頑健性」を基準にすればよいのではないか(125頁)。
▼「話す」と「書く」の違い
・「話す」は現前的だが、「書く」は持続性があるなど特性の違いが多い。また、メールなどメディアごとに、あるいは世代ごとに、どういう「つもり」で送っているか/受け取っているかにも違いが出てくる。

3 社会科で平和の価値を知る
▼戦争は損な活動
・第一次安倍政権での教育基本法が説くように、社会科に「愛(国心)」という「きわめてあいまいで個人的なもの」を持ち込んだとしても、「すべての国民にとって学習の目標になりうるか疑問である」(129頁)
・筆者は、社会科の目標として、「平和というものが日本にとっていかに価値のある有り難いものであるか知ること」を掲げる(129頁)。
・戦争という国家による、人的・物的資本の破壊的な消費は、消費者の生活を悲惨なものにする。
▼平和の恩恵が大きい日本
・(平和が可能にする)自由貿易により、資源と食料というネックを解消できている。
・冷害や飢饉などの災害に対して、「有効な手立てを講じる」上でも、交易により社会を豊かにすることは重要(132頁)。
▼消費者主権の合理性
・基本的人権、国民主権、平和主義といった日本国憲法の柱は、「市場経済における消費者主権の考え方」と同義的である(133頁)。
▼統計教育の必要性
・正確な統計へのアクセスは、現状に対する敏感な感受性と変化に対する感覚を喚起する。例えば、国家の窮乏化が政情不安をもたらす、というように思考を働かせることができる。
・政府の統計作成は各省庁に任されている。「見かけ上は数多くの統計が存在しているものの、それらは体系化されておらず、統計作成のための資源が効率的に使われていないのである」(137頁)。また、「現状の業務に差し障りがなく、かつもっとも手っ取り早く人員を減らせる統計部局」が、公務員数の一律削減の影響を受け、統計の質の維持の点でも問題を生んでいる。さらに、省庁ごとに類似した調査が企業や国民に繰り返されるため、「協力を拒むケースが広がり始めている」(138頁)。

4 理科で自然とうまく付き合う
▼自然の偉大さを知る
・将来の職業と結び付け必要性を議論すると、「理科が嫌いなら文系を選択すればいいという……発想」を後押しし、理科離れ・科学離れを助長してしまう(140頁)。
▼自然からの恩恵を知る
・地球が稀有な惑星であることを教える、害獣や害虫とされる生き物が生態系で果たす役割を教えるなどして、自然からの恩恵や相互依存性についての学習。
▼環境問題は理科教育で
・環境問題を意識して一人ひとり行動してもらうには、コスト意識を持ってもらう(経済学的なアプローチをする)よりも、化石燃料の生成過程や、現状の地球環境ができあがる過程などを学ぶことで、自然からの恩恵や、「自然界の一員としての人間」という意識を育むことに注力した方がよい(145頁)。

5 英語はまず聞くことから
→ニーズないし学習目標の再定義については、一切触れられていないので省略

6 芸術も体育も消費者教育
▼芸術はまず消費者を育てよ
・音楽や美術は、特に上手でも好きでもない子も一緒に制作に参加させられ、上手な子と同列に陳列される。それにより、音楽・美術嫌いが生まれることはままある。
・「美を感じる感性には知識も教養も身分も関係ない。美は万人のものなのだ。美を素直に理解して、美に接すれば接するほどその感性を磨いていくのは子どもである。その感性を育てるのが美術館なのだ」(154頁)。金沢21世紀美術館の蓑豊の言葉に、筆者は大いに賛同。

7 個人のための家庭科
▼家庭科学習に必要なもの
・小学校の教科書には、家族観や生活パターンなど「『あるべき論』のにおいが漂っている」。「価値観の押しつけをしない」ことは、現実の変化に即していないし、意味をなさない(167頁)。
・家族という組織は、一枚岩ではない。「家族という組織を維持するためには」、ある生活様式を協働的に「実行するためのインセンティブ」を考える必要がある。「組織運営」について考えねばならない(168頁)。
・子どもが自分自身を守ることができるように、人権教育を徹底した方が良い。自身の位置を相対化し、親(毒親?)から距離を取るためにも重要である。
 


第四章 これからの社会、これからの教育

1 今こそ個人尊重を

・教育は大人が子どもにするものである以上、大人の都合の良いものになりがちである(戦前・戦中を見よ)。 
・現代の個人化社会を支えるのは、明らかに、技術進歩である。家族でばらばらに過ごすこと(例えば食事を別個にとること)が「それほど非効率ではなくなったのだ」(175頁)。 
・この個人化の流れが「社会への求心力を失わせるのではないか」という危惧がある。右傾化や愛国心の強調はその典型だろう。筆者はその動機に理解を示しながらも、「個人化へむけて大きく舵を切った時代の流れに逆らうことは難しい」としている(177頁)。 
・個人主義の蔓延が社会道徳を衰退させたと言われるが、この意見は的を外している。本来の個人主義は孤立主義でも利己主義でもない。「すべての人間が互いの存在を尊重することである」(178-9頁)。より徹底した個人主義が必要である。日本国憲法の自由主義的な精神は、これを理念化したものではないだろうか。



2 徳育より宗教教育

・福沢諭吉の『文明諭之概略』によると、「徳」の効果は近親者にだけ及ぶ。それに対して、「智」は広範囲で、社会生活を一変させたりもする。この対比を踏まえると、徳育の科目化が不毛であることは明らか。 
・福沢は、徳も智も公共化されねばならないと説く。しかし、私徳を公徳へと変換することは難しい。公的権力による徳育は戦前のような全体主義化にも近接しかねない。智を伴った伝統宗教のように、徳を公的なものに変換した例に注目することが有用だろう。 
・公徳の内実は大まかに収斂しており、世界的にも大差はない。筆者によると、重要なのは人間の不完全性――「人間の愚かさや弱さ」(188頁)――を学び、衝撃を受け入れられるほど心を柔軟にしておくことである。それにより、自他への思いやり、謙虚さ、寛容性、自己承認を育て、結果的に道徳心を形成していくことこそ目指されるべきである。 
・「道徳を教科化し、モラルを子どもに押しつけることは、知的のみならず道徳的にも完全な人間を目指すよう指導するようなもので、子どもの心の鍛錬という点からいえばまったくの逆効果である。世の中はますます窮屈になり、ルールを守らなければならないと心が固くなり、同時に傷つきやすくなる。その一方で、ルールに厳格な人はそうでない人を軽蔑し、馬鹿にするようになるだろう」(188頁)。 
・現代人がキレるのは、実際には「多様な価値観が氾濫」している社会であるにもかかわらず、「モラルという一定の狭い枠に人間を押し込めようとしていることの弊害ではないだろうか」(188頁)。



3 恋愛は立派な学科

→前節の内容を、子どもにとって身近な「恋愛」で置き換えているだけなので省略



4 「自立」とは何だろうか

・現代、自立は経済的自立=働いていることと同義になってしまっている。これは、実情に即していない。「なぜなら日本では人口の約半数が働いていないからである。働かなければ自立できないのなら、日本人の約半分は自立できていないことになる。こんなおかしいことはない」(195頁)。 
・障碍者は、自分の経験の範囲が、「養護学校という狭い範囲」での友人関係か、家族といったものに限定されてしまっており、自分自身に関する知識や、消費行動のための情報が不足している(198頁)。経験値を得る機会が限られていたために、自分の意志で自分の生活を豊かにすることができない。
・自立とは、「自分で選択肢を探し出し、その中から自分にとって最適なものを選び、自ら実行する」ことである(199頁)。「家事や育児の一切を妻に任せ、その見返りとして家計の財布を妻に渡している夫も自立できていない人間の典型例だ」(201頁)。だそうです。



※「子どもは実家に留まり続ける限り、たとえ働いていても、親に生活費を渡していたとしても自立した人間とみなすことはでいない。親に朝起こしてもらったり、部屋の掃除をしてもらったりするのは論外というべきである。自ら主体性を持ってひとつの家計を運営してこそ自立なのだ。逆にいえば、わずかな年金で生活する重度の障害者であっても、実家を出てグループホームで暮らし、限られた収入をどう配分すべきかを自分の頭で考えて生活していれば立派な自立といえる。」(201頁)

→今度は、物理的自立+経済的独立性を「自立」と短絡しているように思える。本書の「自立」の用法はあまりに多様なので、前述の意味(199頁の例)で理解するのが生産的だろう。