2016年6月21日火曜日

ルース・リスター『貧困とは何か――概念・言説・ポリティクス』

今回取り上げるのは、2011年に明石書店から翻訳の出た、『貧困とは何か』です。
著者は、イギリス労働党議員にして、気鋭の社会学者、ルース・リスター(Ruth Lister)です。

今回の訳出は、ありそうであまりない手順で行われています。まず、翻訳家の立木勝さんが下訳を作り、専門家である松本伊智朗さんが、リスターへのインタビューや関連文献の読解を経て、「監訳」という形で下訳に手を入れたそうです。
時間もお互いに節約になるし、翻訳の精度も上がるだろうから、これはいいワークシェアだなーと思いました。


原著のPovertyは、キーコンセプトシリーズの一環として出版されたもので、「貧困」以外には、GenderなどCitizenshipなどがあるそうです。
また、原著は改訂版の準備中とのこと。
原著にはkindle版もあるので、英語が得意な方はそちらで読んでみてもいいかもしれません。

個人的に気になった点をもう一つ挙げておくと、原著と翻訳の表紙がすごく似ているように見えて、実際は全然別の写真だというのは面白いですね。

この小石たちの写真は、恐らく本書の理念的なところを正確に捉えたものです。
一筋縄にはいかず、捉えがたい上に、経験も内容も千差万別の「貧困」を、それでも、政治的・社会的な課題として引き受けていこうという姿勢を読み取ることができるのではないでしょうか。

さて、目次はこんな感じです。


序章  概念、定義、測定基準  各章とそのテーマ
第一章 貧困の定義  貧困の定義に向けたアプローチ  絶対的/相対的の二分法を超えて  結論
第二章 貧困の測定  〈なぜ〉と〈どのように〉の問題  〈なにが〉の問題  〈だれが〉の問題  結論
第三章 不平等、社会的区分、さまざまな貧困の経験  不平等、社会階級、二極化  貧困の経験  ジェンダー  「人種」  生涯  年齢  地理  結論
第四章 貧困と社会的排除  社会的排除の概念  社会的排除と貧困の関係  結論
第五章 貧困についての言説――〈他者化〉から尊重・敬意へ  〈他者化〉と言説の力  歴史に根ざして  「アンダークラス」と「福祉依存」  「P」ワード  貧困の表現  スティグマ、恥辱、屈辱、  尊厳と尊重・敬意  結論
第六章 貧困と行為における主体性――〈やりくり〉から〈組織化〉へ  行為における主体性  〈やりくり〉  〈反抗〉  〈脱出〉  〈組織化〉  結論
第七章 貧困、人権、シチズンシップ  人権  シチズンシップ  声  「哀れみではなく力を」  結論
終章――概念からポリティクスへ  重要なテーマ  研究と政策  再分配のポリティクス、承認と尊重・敬意のポリティクス
註、参考文献、監訳者解説、索引


 この本の要約をすることは難しいところがあります。第一に、各章で本人が巧みに要約をすませているから。本人よりは幾分精細に欠ける要約を披露してしまうことになりかねません。
第二に、すでに示唆した通り、貧困という複層的で捉えがたい事態を取り扱っているから。この点についていえば、本書は、こうした「捉えがたさ」を安易に割り切ってしまうことなく、複雑なままに取り扱おうとするところがあります。
 「貧困の女性化」を論じた箇所を例として見てみましょう。
北でも南でも、貧困者は女性であることがあまりに多い。EUおよびアメリカからの証拠は(スウェーデンだけは明らかに例外だが)、程度の差こそあれ、すべて女性の方が男性よりも大きな貧困リスクに直面していることを示している。(中略)「貧困の女性化」は、こうしたパターンを捉えるための用語で、いまでは幅広く使われるようになっている。しかし、レトリックとしては力強いのだが、この用語には誤解をまねく部分がある。(中略)「貧困の女性化」という命題のもとで用いられている統計は、世帯主を基礎にしたものが大半で、世帯の中の個人に基づくものになっていない。後者のデータがない場合は、粗い「推測による見積もり」で済ませている。いい例が、広く引用されている世界の貧困者の70%は女性であるという国連の見積もりである。女性が世帯主の世帯での貧困リスクにばかり気を取られていると、そうした集団内での不均質性や、男性が世帯主の世帯での女性の貧困が覆い隠されてしまう。(p.89-90)
「言われてみれば、確かにそうだ」と思わされる指摘ではないでしょうか。貧困に関連する多くの学説や理論、データ、言説を検討しながら、リスターは逐一こうした批判的な視線を向けていくことになります。

*

 本書は貧困をテーマにしています。とはいっても、よくあるルポルタージュの類ではなく、貧困という「概念」に焦点を当てた研究だというのが、本書の特異な点でしょう。監訳者の松本さんも、日本の研究と比べて、その点が珍しいと解説で記しています。
 とすれば、気になるのは、この「概念」とは何ものか、ということです。リスターは、「概念」を「意味」と言い換えています。
貧困の概念は非常に一般的な次元で働く。それは定義と測定基準を考える枠組みを提供する。それはつまるところ、貧困の概念とは貧困の意味ということである。(p.17)
しかし、この「意味」とは何なのでしょうか。十分説明されているとは言い難いのですが、人びとが「貧困」ということで意味しているものの総体、つまり、貧困ということで理解していることの総体を指しているのではないかと思います。
貧困の概念の研究には人々が貧困をどのように語り、思い描くかということもふくまれる。すなわち言語とイメージを通じて表現される「貧困の言説」ということである。そうした言説はさまざまな場で構築されるが、もっとも顕著であるのは政治・学問・メディアである。このいずれもが、一般社会での貧困の理解のされ方に影響を与えている。(p.17)
この一節からしても、上のような解釈で間違いなさそうです。


こういう感じで、「概念」「定義」「測定基準」など種々の道具立てを準備しつつ、それらの関係を、序章では図のように整理しています。

しかし、この図はわかりやすいにせよ、誤りがあるでしょう。
ごく細かい点ではありますが。

まず一点目。
「概念」が、「意味と理解」、私たちが対象に抱く「言説やイメージ」の総体なのだとすれば、厳密にいえば、調査・研究の際の「定義」や、研究それ自体、考案された「測定基準」も、当の「概念」に含まれねばならないのではないでしょうか。

また、図に関連することで、もう一点気になることがあります。
監訳者解説によると、邦訳の際に著者から「貧困の再概念化」というタイトルを提案されたそうです。つまり、「再概念化」は著者にとって、決定的なキータームなのです。

「再概念化」とは何でしょうか。
上図のような関係にある諸観念のもとで探求・研究した成果は、私たちの貧困イメージ、つまり、「貧困の概念」に差し戻されねばならない、ということだろうと推測されます。
とすれば、気になるのは上図の矢印の方向です。上図がわかりやすいのは確かです。
しかし、「再概念化」という鍵概念を踏まえるならば、すべての矢印は、本書の探求を通じて、当の貧困概念それ自体に帰っていくはずです。跳ね返っていく、反映されていくはずです。
矢印は、それぞれが円環を書くように、「概念」へと回帰せねばならないと思われます。

「再概念化」というと、「また新しい社会学の道具立てですか?」という気がしないでもないのですが、哲学でなじみ深い言葉を使うなら、「解釈学的循環」のことでしょう。



やや抽象的な話になってしまいました。
細かな指摘も、うなずくところが多い本だったので、いくつか引用してみます。
……貧困と闘うための政策は、隠れた不平等に取り組むとともに、ジェンダーや「人種」や障害とも関連する、幅広い平等・反差別戦略のなかに組み込まれるのでなければならない……。(p.112)
地理、不平等、社会的区分、ライフコースなどと絡めつつ、貧困を検討した際に、結論部分で述べられる言葉です。

また、リスターが暗示する連帯のありようにも共感しました。
ジャーナリストのニック・デイヴィーズが『暗い気持ち――隠されたイギリスのショッキングな真実』を書いて話題となった。この本は、「同情的な〈他者化〉」とでも呼ぶべきものである。デイヴィーズは自らを「遠くの密林に分け入るヴィクトリア朝の探検家」として示し、「もうひとつの」「まだ発見されていない国」に「貧困者」が暮らしているとする。彼はdifferentという形容詞を盛んに用いることで、このメッセージを強化している。デイヴィーズは貧困によって人々が受ける損害を強調しているが、こうしたイメージの使用は、おそらく読者にっ距離をおかせ、恐怖を抱かせる面の方が大きくて、彼が求めたような「貧困と闘う十字軍」を呼び起こすことにはならないであろう。(p.170-1)
リスターのメッセージを理解するためには、これを裏返しに理解しなければなりません。差異を強調したり、〈他者化〉したりしない。これです。
 〈他者化〉というのはOtheringの訳語です。森達也風に言えば、「われわれ」と「かれら」に分けることだと言えるでしょうか。違う存在として、頭の中で、単に区分してしまうのです。違う存在、異質な存在として、「私たち」と「彼ら」を分割することです。
 そうして分断を誘い、エイリアン化するのではなく、むしろ「私たち」を拡張する仕方で連帯を確保しようとする。こうした連帯のあり方に、私は共感します。


 貧困を取り扱った本としてはかなり抽象的なコメントになりましたが、それは本書が「概念」に焦点を当てている以上、致し方ありません。
 遅くなりましたが、頂いた本をざっくりと書評してみました。