2015年7月22日水曜日

ある「卒業生へのメッセージ」を読み返している。

卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。(校長メッセージ)2011.03.24
http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/


なんとなく記憶に残っていたので読み返している。大学という「特殊な時間」について。

ちょっとポエミーだけど、当時は誰もがこういう真剣だけど深刻すぎない、誠実な言葉を必要としていた。それこそ、「特殊な時間」だった。

池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。 
 「今日ひとりで海を見てきたよ。」 
 そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。

この校長はヨハネ福音書から言葉を引用している。「真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)。
もはや手垢のついた言葉かもしれない。が、ハーバード大の校章に「真理veritas」と記されていることは故なきことではない、とも思う。

学部一年時のレポートを発見したので。

学部一年の頃のレポートです。
連続してアップロードしたレジュメの授業のやつかな。


まだレポートがどんなものかわからないまま書いてるんだろうなと思います。笑
ひどいもんですね。。。サルベージしたところでは、もっとひどいレポートもあったのですがw
まぁ、学部なんてそんなもんですよね。
恥ずかしいことをわかっていながら、なんとなく貼ってみることにします。


ヨーロッパ法文化論

 封建社会においては、荘園所有によって支配力を強めていたところの地主貴族や下級貴族、あるいは都市貴族が、世襲的な「参審員」として、法名望家層を形成していた。しかし、彼らは読み書きも満足にできない者が多く、学識層とは決していえない。あくまで名望家に過ぎなかった。彼ら「参審員」の権威は、社会的地位にあった。血縁社会のもとでの、その権威が、彼らや彼らの決定に対する、心理的服従の強制が規範の妥当性をなしていた。彼らは個々に独自の地域的慣習法に精通する者だった。
 生産の増大などによって社会・経済基盤が変化したこと、そして火器が登場したことで戦術が変化したこと、新興ブルジョア層が台頭したことなどで、封建貴族は没落へ向かっていった。また、権力の中央集権化の流れの中で、地域独自のものでしかなかったドイツの法にも変化の要請が生まれた。領域を貫く法が求められる中で、法というものが複雑化・専門化し、加えて文書行政の要請も生まれたため、併せて法律家のあり方も変化していった。
 更には、思想的な転換も、法律家への影響として無視できないものがある。人文主義・ルネサンスの思潮の中で、キリスト教的権威、教会的権威が後退し、思想の世俗化が強力に進んでいった。その流れで、ローマ法が教会法を圧迫し、教会・聖職者による知識の独占が解かれた。知識は商品化されてゆき、法律家がサービス業で発達するところとなった。そして、宗教改革の運動の中で、宗教や道徳の問題が個人に帰せられるようになり、個人主義が浸透した。個々人の訴えが多様化し法知識の専門化・複雑化への要請は高まった。
 その一方での話ではあるけれども、宗教改革の辺りで、教会の世俗化が批判されたが、その中で「権威批判」「反世俗」の要素が呼応して、「権威」や「金」に奉仕する法律家も非難されるところとなった。後に述べるところの法律家批判の傾向も、この流れの中の話である。


 合理性というものを軸にした「学識」は、従来の出自や身分という要素に代わっていった。つまりは、その「学識」を中核として、エリート層が形成され始めたのである。中世における「学識」は、すなわちキリスト教・教会権威と結びつくものであり、大学は中世の知識の独占した教会の強い影響下にあるものだった。世俗から遊離したところにおいて、研究され生み出された専門知識は、民衆を基盤にしたものではなく非民衆的なものだった。知そのものも、教会・聖職者に独占されていたのである。
 この「学識層」に、新興市民層が流入して、その大部分を占めたのだが、この現象は、学識層が民衆化したということを意味するわけではない。大学博士は、下級貴族に列せられたように、学識は一方で世俗化されながらも、そのまた一方で中世的な身分に結びついていたのである。こうして、身分と学識が強く結びつくことで、文書貴族が新貴族層を形成した。中世世界においては、聖職者がそうであったのに類似して、法学者というのは、身分的世界での新たな「風穴」になった。このことは、法学識層へと市民から多数流入したことが象徴している。ゆえにまた、これは急激に変動した社会経済構造の動揺に対する安全弁として働く側面もあった。法学識を身につけることで、現在の身分を脱して上昇する事が不可能ではなかったからである。そのこともあって、学識エリートは、革命に対するブレーキとしての役割を果たしていた、とある種いえる。
 イギリスにおける法曹団体(legal profession)やフランスの法官貴族(noblesse de robe)は、市民社会に基盤を持つような政治的な団体にまで発展した。彼らを支えるのは、大学ではなくもっぱらサロンにおいて培われた知識である。一方でドイツにおいては、市民社会が未成熟であり、イギリスやフランスにも遅れをとっていたために、官僚として各領邦国家で、忠実な「家臣」となり、支配を強力に支えた。



 近世において、法律家批判の傾向は大きく3つある。1手段を選ばず、なりふりかまわぬような、名声・富への激しい志向、2権力志向、へつらい、3三百代言である。これが意味するところは、法律家が支配層に参入しているということである。旧勢力たる貴族・封臣の専横や介入を嫌って、顧問官としてじきじきに君主が雇っていた。貴族の大きな仕事は、軍役と助言にあったため、君主と共同して政策を決定する仕事を持つ顧問官とは、必然的に対立するところとなっていた。構造としては、君主を間において、旧支配体制の残滓ともいえる、慣習的な貴族と、法学識をもつ顧問官とは対立していた。
 当時は他の領邦は外国という意識があった。これもあってしばしば他両方からくる法律家は「雇われ外国人」と呼ばれていたため、貴族の土着的な要素と反発した。知識も、留学などして大学で身につける法律家に対して、貴族はその地域に固有の慣習的なものに頼っていたため、対立の生成は避けられなかった。
 下級官吏と顧問官の違いについては、前者が「手と行為」によって仕えると形容されるのに対し、「舌と知性」によって仕えるとされた。その専門的知識、法学識が重要なファクターであった。人文主義・ルネサンスの潮流の中では、顧問官などの中に、つまりは権力の中枢に、半学識者や半法律家がいることへの反発や批判があった。十全に法学識を身につけないまま、学識者や法律家を語る様に、強く非難があつまっていた。それが上の三百代言の意味するところである。


 学識法律家の、学識というのは、ローマ法の学識であり、つまり彼らは大学でローマ法を学んできた人のことである。ローマ法を需要する前のドイツでは、ローマ法の知識など全く持たぬ者、例えば聖職者や地方の有徳者が裁判を行っていた。
 学識法律家の需要が高まっていく中で、当然大学の設立に対する要請も高まったのである。大学の設立は、世俗権力によるものが多い。とはいえ法学者の需要が高まったから彼らによって設立されたというよりは、当初大方の大学は、神学を中心に据えていたことからもわかるように、聖職者育成が一番の目的であり、カノン法が中心であった。大学成立当初の教師や知識人というのも、もちろん中世的な権威であり、知識を独占していた聖職者が大半であった。このことからも教会と大学の強い結合がうかがえる。学生の集まりからであれ、教師の組合からであれ、いずれにせよ最初は自然発生的に生まれてきた大学であるが、のちに教皇や強力な教会から許可をもらうことで、権威を戴くことがあった。それは、自治権や学位授与権という形であらわれた。
 ローマ法の継受を目的に大学が設立されたのではない。大学教授が盛んにローマ法を教える中で、人口増加による効率的で画一的な行政が望まれ、文書官僚が必要とされる中で、ローマ法が結果として栄えていったのではないかと考えられる。
 大学は教師や実務家を育成する場ではない。目的や歴史性からいっても違うのだが、多くの大学教授が、実務家を兼務していたことからいっても、事実上、官僚育成機構として役割を果たしていることは否めない。

参考文献

上山安敏、1966年『法社会史』みすず書房。

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので③

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので①

以上です。
今はもう読んだ記憶もほとんどないですけど、こんな勉強もしてたんだなぁと思いました。


上山安敏『法社会史』

第十二章 ゲルマ二ステンと政治的運動

三月革命前の時代は、学問が政治的社会的機能を動かした時代だった。ドイツでは、政治が大衆世論という形で、初めて権力構造を変質させた。しかし、この世論は、大学の政治的教授のもので、それは特に法学者と歴史家だった。

ドイツでは、三月革命前の歴史を駆動するのは、法・歴史・言語であった。国民の所属は、自由意思でなく、自然と歴史により規定された運命であるという認識が支配的であった。経済発展につれ、教養層が英仏型の「富と教養の階層」に近接し始め、学識者は次第に政治性を帯び始めた。大学も、純粋な研究の場だと自認しながら、国家の精神的支柱たる存在を固辞することで、政治運動の精神的指導者を生みだす契機を有していた。この中で政治的教授が生まれていった。ドイツにおいてリベラリズムは多義的で幅広い概念だった。彼らは、当時社会的な力となりつつあった与論を合言葉に用い始めていた。

ドイツの統一と自由を求めた運動は、反動体制の道具と化したドイツ連邦でなく、職業を通じた横の連帯を基盤に進められた。ゲルマ二ステン集会は、このような運動の典型だった。この集会では学会母体を、特に法学・歴史・言語に制限した。集会は法律家が主導し、議題も彼らが提示したものが総会の強い関心を引いた。ゲルマ二ステン運動は、その母体の歴史法学と同様、私法から出発したが、同時に新しい公法領域を開拓した。学問の枠を守る動きと政治的運動の微妙な衝突はあったものの、政治的な方向に傾いていった。


1、政治的教授の登場

ドイツにおいて、三月革命前期の歴史を駆動するのは、法・歴史・言語であった。国民の所属は、自由意思でなく、自然と歴史により規定された運命であるという認識が支配的であった。歴史や言語の文化運動は、言語と民族の統合による国民国家の形成という、ドイツ特殊的な政治運動の推進力となった。

フランスのバロのような弁護士団体は革命運動に対して大きな政治的役割を果たした。彼ら弁護士はブルジョア層の富と、学識者の教養とを所有する者であった。一方ドイツでは、経済発展の遅れのため法曹の自由営業化が阻害され、フランス型の政治的弁護士を生まなかった。ドイツでは、市民運動が国民国家・立憲国家・法治国家を作ろうとするとき、大学の法・政治的知識を持つ学識者が必要とされた。多くの人にとって学問は、それら国家との一致が必要であった。

経済が急速に発展するにつれ、教養層が英仏型の「富と教養の階層」に近接し始めた。学識者は次第に政治性を帯び始めた。大学も、純粋な研究の場だと自認しながら、国家の精神的支柱たる存在を固辞することで、政治運動の精神的指導者を生みだす契機を有していた。この中で政治的教授が生まれていった。


2、政治的教授とリベラリズム
ドイツで、リベラリズムとは多義的で幅広い概念だった。当時社会的な力となりつつあった与論を、彼らは合言葉に用い始めていた。また政治的には、立憲主義(中央右派)と議会主義(中央左派)に、大きく分類される。リベラリズムの思想的基調は、反封建、反啓蒙、反フランス革命、反自然法、反絶対制、反官僚制に帰結する。このような態度をとった彼らの理論的支柱は歴史法学の派の依拠した有機的発展理論だった。彼らによると、国家は契約的に建てられた社会でも、目的合理的な構成物でもなく、人間自然において作り出された有機的道義的共同体である。


3、ゲルマ二ステン集会

ドイツの統一と自由を求めた運動は、反動体制の道具と化したドイツ連邦でなく、職業を通じた横の連帯を基盤に進められた。ゲルマ二ステン集会は、このような運動の典型だった。学問と政治的理念が強力に結合した政治的なショーという意味で画期だった。この集会では学会母体を、特に法学・歴史・言語に制限した。集会は法律家が主導し、議題も彼らが提示したものが総会の強い関心を引いた。

集会内部は、三つのグループに分かれていた。旧世代の穏健派、急進派、中間グループである。穏健派はロマ二ステンに対して妥協的であり、集会の中核をなす急進派はドイツ固有のものとして取り入れられたローマ法は排除しようとするものではないとした。中間グループは中庸の態度だった。

ゲルマ二ステン運動は、その母体の歴史法学と同様、私法から出発したが、同時に新しい公法領域を開拓した。学問の枠を守る動きと政治的運動の微妙な衝突はあったものの、政治的な方向に傾いていった。

疑問点・論点

・学者の政治性

・純粋な研究の場は可能か→純粋な研究を自認するあまり、社会的な影響や悪用の可能性を度外視することもあるのでは?逆に政治的であることの弊害(学問の自由が無くなるなど)



同書
第十三章 裁判官層の自由主義化

1、ウィーン会議後のデマゴーグ迫害と警察


ウィーン会議では、勢力均衡や正統主義の下で反動体制がつくられ、一定の秩序が形成された。ドイツでは、ゆるく統合されたドイツ連邦が組織されたが、国民的統一への欲求を満たすものではなかった。体制は革命的潮流を嫌い、ブルシェンシャフトの弾圧に象徴されるように、弾圧の手段は過激化した。革命的な動きを取り締まるために、警察司法省の構成員からなる委員会が設置され、家宅捜索や逮捕が乱発した。

2、裁判所の抵抗
当は、司法は圧倒的にリベラルなもので、一方警察は体制保護的で反動的なものと捉えられた。


3、裁判官の自由主義化

三月革命前の官僚体制は、下からの運動たるリベラリズムの高揚と権力の反動化に伴う政治的対立を内部において反映しており、行政府と司法府との対立という形で現れた。プロイセンで、等族的なイデオロギーの擁護者から、進歩的自由主義の担い手となった司法府は、官僚機構の中でアウトサイダー的な立場を強いられた。


疑問点・論点

・当時の社会での受け取られよう、民衆の反応は?
・司法権の独立、体制との距離感→日本では?
・警察の思想的取り締まり→明治以降、戦前。特高など。

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので②

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので①

同じ上山安敏さんの『法社会史』のレジュメです。


第五章 法律家と権力

1帝国裁判官層


英の法曹団(legal profession)や仏の法官貴族(noblesse de robe)のような統一的法曹階級が成立をみたのは、絶対王政の法政策の所産、つまり政治権力を背景とした形成であるの対し、ドイツの法曹階級(特に裁判者階級)の非力は、神聖ローマ帝国の権力的脆弱性、そしてその権力の領邦国家への最終的帰結による。

1‐1不毛の背景

帝国の観念的統一性b首府の欠如c帝国財政d皇帝からの独立e帝室裁判所の裁判管轄の縮小化f帝国法の不毛

中世的権威を持つ神聖ローマが掲げる、「ローマの再建」という理念を支えに持つが、現実では裁判官階級を支えるような政治的な力が帝国にはなかった(イタリア政策の失敗では諸侯に、ランデスホーハイトの突破口を与えた)。その結果、帝国の下での首府(や官庁)と帝国裁判所の非固定化を生み、法曹階級形成の結晶点にはならなかった。財政状況が悪い上に、租税政策の失敗で、判事の人員を確保しきれない。

英仏は経済的に国王から自立することで、特権的地位に立ち、国王の絶対性に挑戦したのに対し、ドイツでは、等族の企てによって、裁判所の皇帝からの独立がはかられたのだった。この中で帝室裁判所の裁判管轄も縮小された。1235年のマインツ帝国議会で裁判所の再編成をおこなったとき、裁判所は地方の慣習法に従って判決を出すようにと規定され、定まりつつあったローマ法=皇帝法=「書かれた法」という帝国法の路線は挫かれた。

(用語)
・マハト(macht)→力
・ランデスホーハイト→領主高権と訳される。貨幣鋳造権などと思われる。
・カンメル裁判所→本来は肯定や帝国の裁判所。しかし、等族と皇帝の妥協の産物であり、任命権も皇帝のみ持つのでなく、皇帝と等族から提案で、帝国議会の中から選ばれた。


1‐2学識性

帝室裁判所における学識裁判官b法曹育成機関cカンメル裁判所学派

裁判所の常置性を促し、多くの法廷を通じた組織層の形成を可能にするところの、学識的裁判官が独にできるのは、英仏に比べて非常に遅い。

イギリスの法曹学院(Inns of Courts)は実務弁護士を教授に迎え、普通法の法曹大学として、次代の育成に努めた。寄宿制による共同生活を通じて、一般教養・スポーツ・ダンス・社交術までをも含めた人格教育は、強い階級的連帯意識を育んだ。それに対し独では、帝あいつ裁判所の陪審員の私塾的教授などに限られ、いずれにせよ体系的な指導や制度を持たず、大学での教育への依存度を高めた。

帝室裁判所は帝国の中央制度としてはたらく資質をことごとく欠いたこともあって、判例拘束力は生まれなかった。しかし、帝室裁判所は和解法学者の見習所となり、実務の仕事を行う事が多くなった。「パンデクテンの現代的寛容」に関する学問も、帝室裁判所の実務家を中心として形成された。ドイツの帝室裁判所の法形成の原動力は、力や裁判管轄権ではなく、大学との人的交流を通じた連帯の中での傑出した個人の活動や、裁判官の著述活動である。16世紀以来のこの文筆活動は「カンメル法学(jurisprudentia cameralis)」の名の下に権威を獲得した。



2領邦裁判官層

2‐1官僚裁判官


16世紀の諸政策(近代的予算租税制の下での財政制度、傭兵制の下での軍事制度、特に宗教改革以後の宗教政策、重商主義による領邦産業政策)

学部一年時のゼミレジュメを見つけたので①

参考にではあるけど、Wikipediaとか引用しちゃってますね。正直者だなと思います。笑
誰かの役に立つかもしれないと思ってアップしておきます。


上山安敏『法社会史』 

範囲:第1部第2章、1家産型官僚「雇われ博士」2法律家層の諸特権3学識的後進性と法学植民地(p55‐70)

1節

単語
P55 公証人→ある事実の存在、もしくは契約等の法律行為の適法性等について、公権力を根拠に証明・認証する者のこと(wikipedia)

P56 家産国家→国家を封建君主の私的な世襲財産と見る国家観。19世紀のドイツの貴族・政治学者であるカール・ルートヴィヒ・ハラーの提唱したPatrimonialstaatの訳。

ハラーは著書『国家学の復興』の中において、家産国家の中では国内の一切の関係は君主の私的な関係とみなされ、領土と人民は君主の所有物であり、財産は君主の私的収入で、戦争もまた君主の私的紛争とされる。そのために国家が君主の世襲財産のように扱われ、国家の統治権(支配権)と君主個人の所有権(財産権)との区別が存在しないような状況に置かれていると説いた(国政と家政の未分離)。彼の理論は後にマックス・ウェーバーによって再構成されて「家産制」概念へと発展することになる。(wikipedia)

*家産制→支配階級の長が土地や社会的地位を自らの家産のように扱い、家父長制支配をもって統治する支配形態のこと。支配者は国家の統治権を自らの家計管理の一環として所有権的な行使を行い、その機構は国家の統治機能と家産の管理機能が融合されている。ウェーバーによると、伝統的支配の典型。(wikipedia)

プロクラ-トル→法定代理人

雇傭=雇用


1節の小要約
家産国家である等族国家において、外国で法学を学んだ法律家に対する需要は非常に高かった。公権力からの需要だけでなく、大学の「博士」に対する必要も大きかった。官吏としては契約的雇用形態で、通常は非常勤で奉仕し、複数の諸侯に仕えた。また教授と国家官吏間の移動は容易だった。法律家層の形成初期は、ソサエティを形成せず純粋に私的営業目的であった。



2節

単語
P60 懲憑→1しるし。証拠。2訴訟上、ある事実の存在を間接的に推理させる別の事実。間接事実とも。このような証拠は間接証拠という。(大辞泉)

註釈学派→註釈学派とは、11世紀から13世紀にかけて、古代ローマ法の主要文言に註釈つけて解釈を行った法学者の一派。中心地はボローニャ。そのためまたの名をボローニャ学派とも呼ばれる。同様にその学説はイタリア学風とも呼ばれる。

開祖はイルネリウスで、彼らの研究成果の集大成である『標準註釈』はアックルシウスの手によるものである。スコラ学を背景に『ローマ法大全』を「書かれた理性」として聖書のように絶対・完全無欠なものとみなし、現在の法哲学のベースとなる哲学体系を確立した。(wikipedia)

バルドゥス→バルドゥス・デー・ウバルディス(1327-1400) は、イタリアの法学者。ペールジア大学でバルトールスに師事する。1351年頃からボローニャ大学を始め権威ある著名な大学でローマ法とカノン法を講義する。著作は中世の法学者の中で最も多いと言われる。

P61 お手盛り→〔自分の好きなように食物を器に盛ることから〕地位などを利用して、決定者自身に利益があるように物事を決めること。

ブルクハルト→19世紀のスイスの歴史家、文化史家。『イタリア・ルネサンスの文化』が有名。

ランデスヘル→大諸侯や修道会総長などの大領主。*グーツヘル→騎士層などの小領主

P63 レジスト→教会法学者を「カノ二ステン」(Kanonisten)と呼び、ローマ法学者を「レギステン」(Legisten、フランス語読みではレジスト)と呼ぶようになった。(wapedia「教会法」)

2節の小要約
独において、法律学は中世的知識権威を伝承し、支配の道具としての学問であった。貴族社会への昇格手段となったように、営利以上に身分と連結していた。権力との政治的結合から爵位のみならず様々な特権を獲得するようになった。政治構造には等族制が深く残っていた独では、17世紀には法律家層は政治的特権階層として、法律家が貴族支配をとった。


3節

単語
逗留→1旅先などに一定期間とどまること。滞在。2その場にとどまって進まないこと。また、一か所でぐずぐずすること。3その場にとどまる時間。ひま。

3節小要約
独は文化的には後進的という劣等感を抱いていた。外国法崇拝の思想が強く、伊仏の大学卒業が高級官吏への必要条件だった。留学への要請は流行するあまり、名目的となった。英仏は自国法への矜持があるのに対し、独はコンプレックスを抱いていた。欧州全体として、大学で自国法はなかなか顧みられなかった。しかし英仏では自国法を学問化する機関が他にあったのに対し、独は教授も法律家もローマ法に専心していた。


要約
外国で法学を学んだ法律家に対すて様々に需要は非常に高かった。官吏の雇用形態は契約で、また教授と国家官吏間の移動は容易だった。法学は私的営業目的であった。一方で独では、法律学は中世的知識権威を伝承したものとみなされ、支配の道具であったため、営利以上に身分と連結していた。政治構造には等族制が深く残っていたため、17世紀には法律家層は政治的特権階層として、法律家が貴族支配をとった。独は文化の後進性という劣等感からか、外国法崇拝の思想が強く、伊仏の大学卒業が高級官吏への必要条件だった。留学への要請は流行するあまり、名目的となった。欧州全体として、大学で自国法はなかなか顧みられなかったものの、英仏では自国法を学問化する機関が他にあったのに対し、独は教授も法律家もローマ法に専心していた。



論点・疑問点


・外国への崇拝・劣等感は、日本にも言えるのではないか。共通点と相違点。現在はどうか。

・独で、宮廷外官吏が複数の諸侯に仕えたというのは、中世騎士の契約的な主従関係の影響があるのか。

・身分の風穴という役割が、聖職者が法律家に置き換わるという理解でよいのか。江戸時代の側用人もそんな側面があったのか、も。