2014年10月15日水曜日

本地垂迹/「おのずから」=「みずから」/エコロジー




学部時代のレポートが発掘されたので晒してみます。


正直クオリティは高くありません。
二回生か三回生くらいでしょうか。(とすると、三、四年くらい前ですね……はずかし)
色々あるレポートのなかでも、悪い直前のまとめ書きなのか、見通しが悪く、言いたいことも見えず、正直恥ずかしいです。とにかく本を読んでいることだけはわかる。

吉田敦彦の研究などが神道神話に関して示していることと相似形ですが、日本の精神的源流は、シルクロード的、東アジア的に開かれており、非常にグローバルなものだった。
言われてみれば当たり前のことを、再度主張したかったのでしょう。
「日本的」と安っぽく使われていることに、レポートの締め切りとの戦いに焦りながらも、強く反発していたようです。
前半と後半の架橋が強引なところを見ると、字数が少なくて焦ったようですね。
文献くらいは参考になるでしょうか。


誤字などは修正しています。
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 『天台本覚論』の内容が議論され、書かれつつあったとき、日本では神仏習合思想(例えば本地垂迹)が全国的に広がっていた。『天台本覚論』で提唱された本地垂迹的主張は、山王一実神道(比叡山仏教)の二度和光と呼ばれる。本論では、本地垂迹を佐藤弘夫や吉田一彦らの論考を参照しつつ、より広い文脈の中で捉え返し、神仏習合を「日本的」と無批判的に呼ぶことへの批判を展開する。最後に、なります思想を確認した上で、その観点から自然保護やエコロジーへ資する点があるのかという疑問を提示する。


本地垂迹の系譜と神仏関係の変遷

 本地垂迹説は、「本地」であるインドの仏が、より現世に適合的な姿である神として日本に「垂迹」する現象と説明されてきた。加えて、外来の仏教(6世紀に伝来)と在来の神が交渉を重ねた神仏習合の最終段階で、神仏の事実上の一体化であり、そして日本に特有の、すぐれて日本的な現象だと捉えられてきた。
 ここで、佐藤弘夫は本地垂迹という用語に注意を払う。「実際に史料に当ってみると……『本地垂迹』という言葉には中世という一つの時代においてさえ、これまで考えられていたよりはるかに広い用例があるとわかる」。中世の本地垂迹の基本的な意味は、「目に見えない彼岸世界の超越者が可視的な姿をとってこの世界に顕現する」というものだった。従来の本地垂迹説理解(通俗的な本地垂迹説)は、広義の本地垂迹説のいちバリエーションに過ぎないことになる。

 このような「目に見えない根源的存在」―「目に見えるその現れ」というカミの二項的把握は、日本の古代中世に共通する神観念の特色であるが、この世で人間と共存すると考えられていたか(古代)、別世界に神が分かたれているか(中世)という点が異なっている。
 佐藤によると、縄文時代は具体的な事象や現象(蛇や太陽、妊娠や種など)に象徴される形で超越的存在がその背後に想定され、弥生時代(や古墳時代)には特定の事象・現象でなくそれらの背後一般にある不可思議な現象を引き起こすパワーと捉えられるようになり、形を失う(シャーマンの登場と軌を一にする)。カミが人と似た姿をとって表現される契機は、6世紀の仏像の移入だった。不可視のカミは自己表現の方法を得る。
 また、江戸時代には、お盆などの折々に自宅に変えることが習わしとなり、死者と聖者が密接な交流を持つようになり、本地垂迹はもはや此岸と彼岸を結びつける昨日を果たさない。近世の本地垂迹の論理は、現世の神仏と他界の仏を媒介する論理でなく、この世の内部にある糖質な存在としての神と仏をつなぐ論理になる。
 「江戸時代以降になって、本地垂迹といえば狭義の神と仏の関係であるというイメージが定着していく」ことになっていくなか、近世以降の思想では、神と仏だけが特権的に焦点化され、中世本地垂迹が包摂していた「仏像」「板碑」「疫神」などの多様なカミが抜け落ちてしまうことになったと佐藤は主張する。現在の日本人が思い描く、「インドの仏―日本の神の関係としての本地垂迹の構図は、本地垂迹の文化が全盛をきわめた中世のものではなく、江戸時代以降の神仏関係を踏まえたものだった」と言える。


本地垂迹と「日本的」という表現の曖昧さ


 本地―垂迹という発想は、吉田一彦によると、決して日本固有のものではなかった。中国で発展した天台教学では、大乗仏典『法華経』で説かれる久遠成実の仏とインドで生まれた釈迦との関係が本地―垂迹の論理で解説される。他には、偽経の『清浄法行経』では、孔子や老師の本地が「特定」されたように、日本の本地垂迹の論理や神仏習合の思想的源流を『法華経』(中国仏教)に求める学問的潮流が存在する。
 本地垂迹の起源を中国に求める形で、日本の思想を捉え直そうという潮流があると言った。吉田などが主張する学説だが、佐藤はその影響関係は認めつつも、「本地垂迹的発想はこの列島において縄文時代以来の長いカミ信仰の歴史の中で育まれ」ている側面があるので、「起源」とは言いがたいと述べて、全面的には受け入れない。信仰の歴史の中で、彼岸表象が膨大になり、肥大化している最中、「たまたま思想界の主役になっていた仏教の論理を借りて、彼岸―此土、本地―垂迹として表現されるようになったと考えるべきだ」と佐藤は主張する。つまり、佐藤によれば、本地―垂迹的発想そのものは、世界中に見られる現象であるが、それが(たまたま)どのように体系化され、どのような「論理」として捉えられるかという点が異なっている(あるいは、宗教の体系化の中で、このような発想そのものが棄却される場合もあるかもしれない)のだ。
 私個人としては、吉田と佐藤の主張は対立せず、補い合う関係にあり、佐藤の主張の中に取り込めるように思える(佐藤は少しアンフェアな解釈をしているのではないか)。いずれにせよ、彼らの論考を見ることで、簡単には「日本的」と口走ることなどできなくなるだろう。二者の主張にかかわらず言えることとして、非常に多国的で、グローバルな見通しのなかで、神仏習合思想/本地垂迹は形作られているからだ。

神仏習合的な発想は日本的と捉えられるが、土着の信仰(カミ)と外来の宗教(特に体系性を伴った宗教)との交渉・習合は珍しい事態ではない。とりわけ世界宗教はローカライズを伴いがちであり、キリスト教にもそのような例は多分に確認されることは言うまでもない(M.エリアーデの『世界宗教史』を参照)。日本の事例しか見ない者が、日本の特殊性を叫ぶのは、井の中に存在する蛙が世界で唯一の蛙だと主張するようなものだ。詳しく見るべきは、世界中に存在するであろう「蛙」の差異であり、その微差にこそ「日本的」(あるいは「ヨーロッパ的」「スラブ的」「東アジア的」……)なものが看取されるであろう。
 「根源的な」神観念という語彙にも疑問を持つ。『古事記』や『日本書紀』の記述を参照して、「根源的」と言うのはあまりにも早計だ。そもそも『古事記』の成立が712年であり、一方仏教の伝来(公伝)は6世紀であるとされる。日本で「神道」なるものが生まれた(体系化された)のは、仏教という、すぐれて体系的な(外来の)宗教との影響関係においてである。




「なります」思想と理


 竹内整一らが指摘するように、名詞の「自然」はnatureの翻訳語であって、明治中頃以降に出てくるものであり、それまでの日本語(そして中国語)で「自然」という語彙は、「偶然」や「突然」(そして「必然」をも意味するのだがそれは置く)と同じ副詞・形容詞的な用法しか持たなかった。以下では、名詞的な「自然」を意味するのでない限り、「自然」ではなく「おのずから」と表記する。
 西田幾多郎は「おのずから」を日本文化の特色として以下のように述べる。
私は日本文化の特色と云ふのは、主体から環境へと云ふ方向に於て何処までも自己自身を否定して物となる、物となつて見、物となつて行ふにあるのではないかと思ふ。己を空うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾とか云ふことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思ふ。(『日本文化の問題』)
九鬼周造も似た指摘をしており、「おのずから」という心性が日本特有のものであると考えられることは珍しくない。物事をあらしめる論理、理顕本や事理無礙などという時の「理」が、日本においては「おのずから」ということと関わっていると考えられる。
 理顕本は、個々の事態(事)を、万物の論理である理が世界の本質を存在せしめている、という論法であるのに対し、『天台本覚論』などに見られる事顕本は、媒介項である理が抜け落ちて、個々の事象を本質(本)が存在させているという論法になっている。理顕本では、理が本質と個物をつなぐ一般原理として機能していたが、ハイデガーが主張する「存在忘却」のような仕方で「忘却」されていったと考えられる。


 「ある」という語彙は、「在る」「生る」「現はる」などの語彙と同根であるとされる。「おのずから」を支えるのは、このような生成の論理である。
 「柿がなる」という文章をしばしば日本人は口にする。この時の「なる」は、上記のような「おのずから」ありつつ、あらしめられるという生成の発想が現れている。生命の結実として、柿が「なる」。柿が「おのずから」成ったのだという受け止め方が現れている。
 竹内整一は、「みずから」も「おのずから」も共に「自(か)ら」と表記されることに注目している。「今度結婚することになりました」。この表現には、ここに当人の「みずから」の意志や努力で決断・実行したことであっても、それは「おのずから」のある種の働きでそう「成ったのだ」と受け止め方が存在することを示していると言えるだろう。

コンビニなどでよく耳にする「以上で300円になります」という(しばしば妙な敬語だと避難される)文も、「みずから」の比重が少ないとはいえ、「ある」ことの原理に支えられて、「おのずから」そうなっているのだという受け止め方が現れているものだと捉えることができる。


なります思想とエコロジー

 「おのずから」と「みずから」が「自」という一語で語りうることに象徴されるように、(両者は異なるのだが、多分に重なっているという点で)魅力的な視点を持つと共に、極めて「曖昧で無責任な、雑然とした成り行き主義でしかないのだ」という批判も十分成り立つと竹内は述べる。
 こういう「ずるずるべったり」の動きは、丸山眞男が「無責任の体系」と批判するものであり、猪瀬直樹が「日本国の研究」で批判する(逆に「家長」の復権を訴える)ものであり、柄谷行人も日本の「自然」がナルシシズムや共同体に閉じられやすいことに対して厳しい批判を向けるものである。こういった反対論のいずれもが、次のように主張している――――天皇制や官僚制、戦後民主主義に通底する形で、「おのずから」と「みずから」という「自然」は、互いに癒着する形で固定化していき、「見えない制度」として機能してしまっている。


 以上のような批判を突き詰めるならば、「おのずから」=「みずから」において「他性」をどう捉えるかということになる。責任はどこか、決断する家長はどうなっているか、他者性はどう立ち現れるのか――それが彼らの批判だからだ。しかし、歴史が慣性を持っている以上、現実的に言って、ボタンを押すように他性がポンっと出現することに期待はできない。
 こういう自然観は、どちらが主体となるわけでもなく、渾然一体となって集合している「神仏習合」にも見出すことができよう。グローバルな視野のなか形成された、「おのずから」=「みずから」的自然観は、日本国内のエコロジー思想にも影響を与えていると考えられるだろう。エコロジーというとき、自然内に生きる人間として、「主体」的に動き、責任感を持って行動することが求められている。しかし、このような自然観を突き詰めるならば、「つぎつぎになりゆく」だけであって、意識して自然に資するような行動をとり、他人にもとらせるような計らいは矛盾を伴ってはいないだろうか。ディープ・エコロジーのような、よりラディカルで、より一貫した思想が存在するなか、自然を擁護する思想として「おのずから」=「みずから」的自然観は弱い。


参考文献
エリアーデ,ミルチア2000~『世界宗教史』1~8、ちくま学芸文庫
柄谷行人1990『言葉と悲劇』第三文明社
佐藤弘夫2000『アマテラスの変貌』法蔵館
佐藤弘夫2012「本地垂迹」『日本思想史講座 古代』ぺりかん社
西田幾多郎1982『日本文化の問題』岩波書店
竹内整一2010『「おのずから」と「みずから」――日本思想の基層』増補版、春秋社
フェリ,リュック1994『エコロジーの新秩序――樹木、動物、人間』法政大学出版局
丸山眞男1961『日本の思想』岩波書店
吉田一彦2006「本地垂迹の需要と展開――本地垂迹説の成立過程」『日本社会における仏と神』吉川弘文館

1 件のコメント:

  1. コトタマノマナビ2014年10月28日 19:19

    紹介 日本語の起源 言霊百神

    kototama 100 deities

    なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな

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