2014年9月18日木曜日

マキャーネル『ザ・ツーリスト』の抜粋・メモと、ちょっと文フリ大阪(短歌)のこと

先日は文フリ大阪でした。ブースにいらっしゃった方々ありがとうございました。
短歌+絵しおりも、おかげさまで好評をいただきました。ツイートを通じて、ほしおさなえさんや馬場めぐみさんからも嬉しい言葉を頂いたりしました。



短歌は苦手だったという方に、すごく喜んで買ってもらえたので、前日の徹夜作業(絶望)が報われた思いです。とても光栄です。
短歌を文学としてゴリゴリに極めていこうというほどの気概はないのですが、興味を持ってもらえるようにこうして間口を広げる立場でいることには興味があります。そういう仕事をするには、短歌に対して、とても軽薄な態度を取り続ける必要があるような気がします。
なので今回の仕事は、いわば私なりの「宣言」のようなものだったのかもしれません。

短歌+絵の栞は、絵とデザインを担当してもらった植松あおばさんの提案でした。最近こういう告知があったので、先んじて頒布できてよかったなと思います。笑
次回のイベント参加は、京都は恵文社一乗寺店で行われる「文芸部」です。下鴨神社やがけ書房、GACCOHや関西クラスタへの訪問と合わせて、ぜひ遊びに来てくださいね。(告知はそのうち)




さて、そんなこんなで、観光学をもうひとつの専門とするため、色々読んだり考えたりしているわけですが……(ちなみに、興味を持ち、観光学に対して第一次接近を試みた跡は、同人誌『都市のイメージ、イメージの都市』に見られます。詳細はこちら。また、こちらで電子書籍版を購入できます。)

さて本題。

観光客が望んだ、差異のディストピア?

……「差異のユートピア」がすでにどこかに建設されているとは、まだ信じられないのだ。観光客は移動し、徴表をつけ、土産物の流通に関与し、そしてもちろん、自身の快楽を充足させる周囲の環境をすべて作り出すことによって、文化の構築に携わっているのだろう。しかし、そのことは、観光客が現実の社会的構築性を唱える先鋭の社会学者であったとしても、またその場合なおさらに、自身の記号の牢獄に閉じ込めないことを保証していない。……(中略)
 記号として観光客の意識と他者の媒介する観光対象のシステムを、本書は、他者性の受容についての途方もない繰り延べとして捉えている。単に際の体験(違った人々や違った国々)だけを収集した観光客は、統合された、中心的、普遍的で、他者から利益を引き出す古き西欧の哲学的「主体」のミニチュア・クローンとして登場するに違いない。(xii)

「1989年版の前書き」の一節。
ひと月ほど前に、まさにこういう内容を扱った小説を書いていたので気になった。というか、小説/物語における読者は、ここでいう観光客でしかあり得ない。小説は新奇さや特異さ、鮮烈さを構造的に要求するし、そしてそれは読者が無意識的に望んでいるものだ。
これを背景として、多重人格やトラウマ、猟奇犯罪、皮膚病、閉鎖的な農村などの記号は濫用され、好奇の視線は再強化される。(開沼博さんの『漂白される社会』はこの引用の延長にある議論だと言えるし、合わせてスティグマ論を思い出してもよい。)
しかし、マキャーネルが繰り返す点を確認しておくべきかもしれない。「いまや誰もが観光客だ」。「観光客は、観光客を嫌う」。要するに、観光客を嫌う者すらも、観光客であることを逃れることはできない。

観光地化と情報公開


次は第2章「観光と社会構造」より、「観光対象と構造的分化」の一節。観光対象の原語は、touristic attraction。ところで、このtouristやtourismの形容詞化としての、touristicという言葉の英語への「輸入」にマキャーネルは一役かったらしい(終章を参照)。

近代社会は、元来とても閉鎖的だが、その多様な位相を探索するアウトサイダー(つまり社会的事業と機能的に結び付いていない個人)の権利を急速に再構築し制度化しつつある。制度には、観光客の独占的利用のために整えられた広場、討論開場、応接室などが取り付けられている。……ニューヨーク証券取引所とコーニングガラス工場は、特に見学者のための時間、入り口、展示室を備えた。精神病院、軍隊駐屯地、小学校なども定期的な解放時間を設定し、そのさいには単なる労働ではなく、よい労働が展示される。生地を投げ上げるピザ職人は、通りから見えるように、しばしば窓際で仕事する。建設会社は、観光客のいろいろな身長にうまく合わせて、仕事場の周りの壁に覗き穴をあける。ほとんどすべての物の、その場に相応しい公共性――つまり、全ての人が観光対象の前で平等となる過程――は近代社会世界の統合にとって不可欠な部分である。(p.57)

この件は本書でも指折りの重要な一節ではないかと。
ただ即座に補足しておけば、この前後で、実際はしばしば過酷な労働事情や、不当労働、労働者が収奪されている環境などが、巧妙に「隠されている」ことにマキャーネルは注意を払っている。黒い布で覆ったり、壁で囲ったりするというよりもむしろ、観光客の軽薄な視線をガイドが誘導することによって「隠す」事例にマキャーネルは注意を払っているようだった。

団体向けが多いけれど、工場見学をしているところも多い。サントリーや山崎となると、工場見学という情報公開自体が一種の自己ブランディングであると同時に、物販スペースその他でお金を落としてもらうという収益の場ですらある。
社会を見通すほどの射程でなくとも、近所を歩く際に、この視点を持っていれば見方が変わるところも多いのではないでしょうか。そういえば、近所のうどん屋さんやとんかつ屋さんも、このピザ屋のように「情報公開」しています。

少し話は逸れますが、「労働の展示」についてはこのような言及があります。
工業社会では、労働は「職業」に細分化され、個人のレベルで生計と地位を約束する。近代社会が、労働を、生産の肯定的あるいは否定的な美学へと変容させる。ある地域における労働の性質(ペンシルヴェニアでの石炭採掘、北イタリアでの楽器製造)が、今では地域アイデンティティの側面、また、コミュニティ・レベルでのQOLの重要な構成要素として理解される。本章[第3章]が扱う労働の展示だけでなく、一般に労働を展示することは、経済と美学を融合させ、工業社会における社会的階級への関心を、近代社会における「ライフスタイル」への関心に転換させる第一歩である。(p.73)
個人的に面白いのは最後の一文。この小結は序章でも予告されている。「『ライフスタイル』は、仕事と余暇の特定の組み合わせを表す総称的な言葉であるが、この言葉が、社会関係形成、社会的地位、社会的行為などの基礎であった『職業」と入れ替わっている」(p.7)とある。


話を戻そう。次の引用は第3章「パリの事例――疎外された余暇の起源」から。

多くの場合において、観光対象の重要性は、実際の訪問がもたらす集合的体験よりも、観光客に公開されているという事実の方にある、と私は主張してきた。屠殺場はその好例である。ベデカーは屠殺場の光景が人気のあるものではない点に注目している。より中流階級の読者を意識して書かれたガイドブックには、屠殺場は言及もされていない。屠殺場を一般公開することで、体制側が何も隠し立てしていないことを、実際には訪問をしない人たちにも示すのである。(p.87)

屠殺と観光というと、内澤旬子さんの本で『世界屠畜紀行 THE WORLD’S SLAUGHTERHOUSE TOUR』(角川文庫)というのがあります。文字通りといった感じですが。
同じく解体というと、畠山千春さんの『わたし、解体はじめました ─狩猟女子の暮らしづくり─』がまた面白いエッセイでした。

余談はさておき、東浩紀さんが『福島第一原発観光地化計画』という本・計画で繰り返し言っている「観光地化」することの利点のひとつも、情報公開です。恐らく、マキャーネルのこの本にヒントを得たのだと思いますが。(Kindleで分冊で販売していましたよ)

しかし、公開されていればそれでいいのでしょうか。
実際は、屠殺場も一定の関心を集める「観光地」であり、人々は屠殺の公開に一定の欲望を持っています。
また、この引用文の直後に「ブッチャーが主婦に切り落とす部位を聞く」というエピソードがあります。この話が示唆しているのは、(当時の)観光客は、公開された(屠殺にかんする)情報を読みとくだけのスキル・知識を前提として持っているということです。
この二点は注意すべきだと思います。

120頁(第5章)には、レストランに入る際に、キッチンを通り抜けねばらない構造になっているキュイジーヌに言及しているのも興味深かった。

観光客は無責任


第5章「演出された真正性」より「観光客と知識人」。

観光客は、訪問先で彼らを待ち構える演出のなかで、重要な役割や機能的な役割をまったく担わない。観光客が訪れる社会的機関で何が起ころうとも、観光客は個人的責任を負わされない。(p.123)

リースマンやマルクーゼを引きながら(ずっと前の文章では、レヴィ・ストロースやブーアスティンを引き合いに出していた)、「観光経験でえられる洞察の特性は、あまり深くはないと批判されてきた」、と続ける。

東浩紀さんの『弱いつながり』で言われている観光客の特性も、マキャーネルの『ザ・ツーリスト』から重要な示唆を受け取っているだろうことが確認されます。
無責任で軽薄な観光客。何にでも興味を持って、移動し、観に行く。部外者として観光客。




どんなものが観光対象か

重要な点は、注目される〈どんなもの〉も、それがい面から摘み取られる小さな鼻や葉、写真にうつる子ども、あるいは靴磨きや砂利採掘場であろうと、〈どんなもの〉でも、潜在的には観光対象なのである。そうした観光対象は、それが注目すべき価値あるものだと、人が誰かにわざわざ指摘するのを待ち構えている。ときにこの私的に役立つのが、公式ガイドや旅行談だ。(p.231)
この辺りのテーマは、アテンションエコノミーとして卒論でも扱ったが、精緻化していきたい論点。

カリフォルニア北部の有名な山の麓に暮らしている女性に言及した箇所と合わせて読むと興味深い。彼女はその山の名前も、知名度も知っているし、長く住んでいる。しかし、彼女の住んでいる山が、当の山であることに気づかない。

真正の観光経験とは、単に徴表(マーカー)を視角対象(サイト)に結びつけることではなく、他人が既に徴表づけした視角対象に自らの徴表を結びつけること、すなわち集合的儀式への参加なのである。(p.165)


これらの抜粋とコメントはマキャーネルの思想を要約したものでも、紹介したものでもありません。自分の興味のある箇所の抜粋でしかありません。それゆえ、『ザ・ツーリスト』の要約および紹介ですらありません。
興味を持たれた方はぜひ書籍にあたってください。
翻訳は正直読みにくかったので、原典に当たることをおすすめします。原題は、『ザ・ツーリスト――新しい有閑階級の理論』です。

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