2013年10月2日水曜日

鈴木博之『都市のかなしみ』――ゲニウス・ロキ、街歩き、そして復元と復原



元々、『東京の地霊』という本で知っていた著者でした。今回、この『都市のかなしみ』を頂戴したので、なにごとか書いてみようと思います。
鈴木博之さんについては、Wikipediaにページがありますので、そちらを見てください。

地霊―ゲニウス・ロキについて


まず、『東京の地霊』について。
地霊――ゲニウス・ロキ――という言葉は、分析概念として提出されているわけですが、それほど有意味でも有用でもないと思います。
土地を特徴付ける霊、とでも言うべき内容が、元々の意味です。
ちなみに地縛霊とは違います。地縛霊は、19世紀辺りに流行した、降霊術や心霊科学辺りが起源で、しかも怨霊に近い含意があるはずです。つまり、地縛霊は近代産。

そのゲニウス・ロキ、地霊を、著者は土地の固有性が希薄化していく(『東京から考える』的言えば、「郊外化」していく。もっと有名なバズワードなら「ファスト風土化」)現状で、土地の個性みたいなのを引き出す概念として考えているわけです。

けど、実質的には、《エピソードで追う土地の歴史》以上のものではありません。
それが悪いというのではないのですが、大上段に振りかぶった割に、「で?」という内容なので。とはいえ、エッセイとしては比類のない出来で、サントリー学芸賞かなにかを受賞するのも頷けます。
こういう風に、丁寧に土地の歴史を追いかけるということをするだけ、土地に対する愛着がかくも生まれてくるものか、と思います。

しかし、この種の試みが目指しているものは、他の手法でもっと簡単に達成されているのではないでしょうか。
目指しているのは、自分の生きている、生活している、訪れる所の「街」「都市」を、ビビッドなものとして感受し、交わり、関わっていく……というような。
念頭に置いているのはいくつかの漫画です。

例えばこの本。

衿沢世衣子『ちづかマップ』――ちづかと一緒に街を読もう!(NETOKARU)


それから、ancouさんという漫画家さんの一連の漫画です。「街歩きもの」とでも言うべき漫画は、結構沢山あって、しかも面白いものが多い。


小難しく考えたい人は、東浩紀・北田暁大『東京から考える』中沢新一『アースダイバー』でも手にとればいいのであって、普通に、自分の街を楽しんでみたい人は、こういう漫画にこそ出会えば、それで十分なのではないかな、と思います。

『東京の地霊』は帯に短し襷に長し。いいエッセイなんだけど、最近の漫画なめんなよ。
読ませる文章だからって、漫画より優れているというわけではないのだから。




復元と復原――東洋と西洋は、向き合う問題もロジックも違うらしい、というお話


そもそも復元と復原ってなんぞ…?という方は、こちらか、こちらをご覧ください。

ある先生に復原と復元について以下のような質問をしました(問題のないように大幅に改変)。

建築史が専門の鈴木博之さんの本の中で建築史の観点からの復原・復元の議論は紹介されるものの、観光や文化遺産の観点が抜け落ちていて片手落ちの感が否めませんでした。
ヨーロッパでは復原・復元の事例が(特に主要観光都市や有名文化遺産で)少ない・認めないタイプの立場が一般的かと思います。鈴木さんはこちらに賛意を示していらっしゃいました。

平等院鳳凰堂の庭改修・改変についての批判しているように、鈴木博之さんは文化財の復元・復原に否定的でした。場合によるとそれは「過去への敬意」どころか、曖昧な想像による「過去の踏みにじり」になる、と。 
リンクを貼った知恵袋に引き寄せて言えば、「当初」をどこに認めるか、どの「当初」を価値あるものとするのか(どの「当初」が「真正性」を持つのか)、未来(世代)のことを勘案すれば、そのような改変はそもそも許されるのか……などのような疑問に集約されるのではないかと思われます。復原・復元によって全ての瞬間を保存し、提示することはできませんので。
ただ、歴史上あった東大寺の改修と、まちづくり的復原・復元とは、共に広義の「復原・復元」に属するものの、筆者の態度は違っているようでした。(前者は文章から伺う限り、それほど否定的だとは思えません。)

平等院鳳凰堂に関しても、最近こんな改修がありました。
これに対して得られた回答はこのようなものです。

例えば、世界遺産は、「時間を今のまま止めることが重視される」ので、復元や復原は重視されない。
そもそも修繕や修復に対する思想が、西洋と東洋で違う。(参考

古い遺跡はヨーロッパにもあるが、アジア圏の遺跡は、そもそも修復が必要なものが多く、ヨーロッパの論理の単純適応では解消しきれない問題が沢山ある。
(アンコールワットの修理・修復は批判できないと、確かに私も思います。)


最近、福島第一原発観光地化計画というものもありますが、物事を維持するには当初から「維持しよう」と努力を続けなければ、なんにも残りませんよね。
一応、曲がりなりにも、95年の震災を体験した身としては、そのことを思わずにはおれないのです。
感情的に「ねーよ!」「廃炉先だろ!」と言うことは簡単です。
けれど、こういう発言を見る度に、残すことと、諸々の必要な作業は、互いに齟齬や妨害を生むことなく並行できることだろうと思わざるを得ないのですが。

それに、勝手に誰でもが入れる現状よりは、管理できる体制を整える意味でも、「観光地化」は意味ある営みだと思います。

動き出している福島、双葉の観光 小松 理虔


その話は置いときましょう。
こういう出来事について、「復原や復元」をどう考えるかということは重要かもしれません。
広島平和記念資料館で、蝋人形が撤去されるという件は、広い意味で言えば「復原や復元」が持つ恣意性を排除しようとするものでした。
現物による展示に換え、「時間を今のまま止めて」その展示物をして語らせるような仕方に転換しようとする。

復原や復元によって、イメージが物質化されてしまうことで、事実化・外在化され、あたかも「実体」のように、さも当然のように、そのイメージが受け取られるのではないでしょうか。
復原や復元――もう少し広いスキームで、修復や修繕も含めて――とはどういう営みなのか、考える必要があるのかもしれません。



『都市のかなしみ』という本だったので、ダークツーリズム的な本だろうという意図で、この本をプレゼントして頂いたのだと思うのですが、全然関係ないですね!笑

とはいえ、頑張って話をご希望されているであろう方向に寄せてみました。