2013年9月24日火曜日

根本彰『理想の図書館とは何か:知の公共性をめぐって』――観光、まちづくり、ショッピングモール



院試も終わって、何か知識欲と興味のままに調べ物がしたいということで図書館(学)について色々調べていました。
まず蔵書を調べる中で気付いたのは、図書の分類において、図書館学・図書館・読書・本についての本は、情報に関する本と共に分類の最初の方にあること。
(これは図書館によって違うのかな?)
分類に思想が現れてるのかな、とか思ったり。この辺は気になった。

それはさておき。
今回の本は、根本彰『理想の図書館とは何か:知の公共性をめぐって』です。
これについての覚書は後に回すとして、図書館学について気付いたことを最初に挙げてしまいます。

・観光学とくらべて、随分丁寧に研究が行われている。司書養成などの都合からか、比べるとかなり体系的に見える。
・お題目のように学際性が訴えられる観光学とくらべて、(同じく学際性の要求される)図書館学は、題目抜きに、ちゃんと様々な分野からのアプローチが行われている印象。(教科書シリーズの巻数の多さ!)
・図書館学という学問の特性上、「現に図書館は存在するし、今後も存在するだろう」+「一般的に言って、図書館は必要とされているし、今後も必要とされる存在であり続けるだろう」みたいな共通認識がスタートにあること。(一切の反省がないというわけではい。「図書館は不要だ」という認識に立った図書館学は、そもそも学問である必要もないだろうし)

追記。
図書館不要を前提に図書館学は難しい、について。
不要を前提にすることは難しいでしょうが(この種のものは文化や歴史によってかなり定義が異なるので、何らかの形で生き残るだろうし)、宗教学・宗教論に宗教批判が存在するように、図書館批判は存在するし、存在し得ると思います。

大抵、宗教批判は、理念・理想としての宗教と、制度化された宗教・現実の宗教との相克において捉え、前者に立ち返りながら、「もっと熱くなれよ!」と語るタイプのものです。
同種の議論は、図書館学でも多く存在することでしょう。
宗教批判については、こちら参照。

この点面白いのは、図書館に関する書物は、図書館が意識的に買う傾向にあるそうです。一般に受容がなくても、図書館に関する本が、結構出版点数があるのはこういう理由があるのだとか(最終章参照)。


とりあえず、ぱっと気付いたことは以上。




『理想の図書館とは何か:知の公共性をめぐって』

目次
はしがき
第一部 図書館を考えるための枠組み
 第一章 日本の情報管理
  コラム1 図書館の新しいイメージ
 第二章 図書館、知の大海に乗り出すためのツール
  コラム2 ヤマニ書房の思い出
 第三章 交流の場、図書館――日本での可能性――
  コラム3 出版文化と図書館
 第四章 「場所としての図書館」をめぐる議論
  コラム4 青森の図書館を訪れて
 第五章 図書館における情報通信技術の活用
  コラム5 ソウルから
第二部 公立図書館論の展開
 第六章 公立図書館について考える――ハコか、働きか――
  コラム6 豊田市図書館と名護市率図書館
 第七章 貸出サービス論批判――1970年代以降の公立図書館をどう評価するか――
  コラム7 いわきの図書館に注文する
 第八章 地域で展開する公立図書館サービス――続・貸出サービス論批判――
  コラム8 いわきの図書館はどうなったか
 第九章 公共図書館学とポスト福祉国家型サービス論
 補章 「図書館奉仕」vs.「サービス経済」

本当は節タイトルまで書けば、もっと魅力的に見えるのですがめんどくさいので割愛。
有川浩『図書館戦争』や、エジプトの新アレクサンドリア図書館藤原正彦の『国家の品格』や齋藤孝の読書術系のアレ(三色ボールペン声に出して読みたい)、公共貸与権、大英博物館、六本木ヒルズの会員制図書館など、キャッチーだったり、流行した概念にもちゃんと触れていることが手に取った最大の理由でした。(出版自体は2011年の夏ですが、論考の発表年度は2000年初めから2010年くらいまでです)
お高く止まらずに、こういうことにもちゃんと目配せしつつ、持論を展開するのは学識者として当然のことだと思うので。

それに、筆者は、キャッチーな所から説き起こして、本論に繋げていくのが結構うまい。



追記。
公共貸与権は日本では例のごとく曲解されているようです。詳しくは本文の他、この辺りをご覧ください(誤解も含めて、主要な扱いをピックアップ)

動向レビュー:英国における公貸権制度の最新動向―「デジタル経済法2010」との関連で / カオリ・リチャーズ
動向レビュー:公共貸与権をめぐる国際動向 / 南亮一
英政府「図書館での電子書籍貸し出しは公共貸与権の対象」と作家団体に公式伝達
著作権をめぐる最近の動向
公共貸与権にかんするメモ~新武雄市図書館を例に~

筆者曰く。図書館も出版社も著者も、出版文化を共に形成していく仲間であり担い手。利益を奪いあいう関係ではない。……という認識ありきなのだそうで。
保証も政府が、そして図書館業務に支障のない限りでの話だそうです。
日本は日本だ!!と言うのは簡単ですが、知った上で言うのと、知ったかして言うのと、知らないで言うのは全部違いますよね。


図書館の理念の変化


図書館の理念は、設立者の理想、時代の理想に左右されている。日本の図書館理念の変化について、大体三つの転換点から筆者は捉えています。時系列に見ていきます。


1、自習の場としての図書館
・古い資料の保存
・第二の勉強部屋や書斎として
・知的で落ち着ける雰囲気を求めている
・科挙型の系統的カリキュラム(いわゆる「詰め込み式」)の影響
・立身出世主義など儒学の影響もあるのか

2、資料提供型の図書館
・資料の貸出と閲覧を中心とする
・自立した市民の「自己教育」の場(探索型カリキュラムとの呼応関係)
・ジャーナリストや著述家の図書館擁護論は、現に彼らが図書館に通って恩恵を被っている
・レファレンスと蔵書のお陰で、多様な観点から著述できる
(本文での例は、『思想としての日本近代建築』八束はじめ。個人的に覚えている例で言えば、『パラダイムとは何か  クーンの科学史革命』野家啓一が、謝辞で司書さんのレファレンスに言及していた。)
・1970年代以降のモデル。今新しくできる図書館は基本的にこのモデル。
・住民のニーズに即した蔵書(貸出数によって、図書館の指標とする)
・貸出サービス論を最初に打ち出した前川恒雄の目論見とは違って、単に流行の小説を集めるだけになりつつあるのではないかという危惧

3、地域文化志向の図書館
・これは、資料提供型図書館ないし貸出サービス論からのオルタナティブな選択肢として筆者が提出しているもの
・郷土資料の充実。地域の記事の切り抜きなどを行なっている所は元々結構ある。
・展示や出版物、イベントなどを通じた図書館からの情報発信
・地域文化の機関となる

といった感じです。
1だからといって、閲覧してないわけでもないですし、2だからといってイベントを一切しないわけでもなく、3だからといって流行の本を意識的に排除するわけでもない……ということは、一応付言します。

図書館と「まちづくり」、あるいは「ショッピングモール化」


3つめについては、「まちづくり」の文脈で語られることと同様ですね。「まちづくり」を考える時には、「~とまちづくり」みたいに対でイメージするといいかもしれません。
「観光とまちづくり」「図書館とまちづくり」……
結局、観光にしろ、図書館にしろ、街としてのプライド、地域のアイデンティティをどう作り出していくか、作り出していきたいかという問題に関わっているのだと思います。
(そもそも、観光地としての成功や、人口増加、雇用創出などの達成が実現する地域の方が少ないのですから、焦点が「シビックプライド」に移行するのは自然だと思います。)
チャーリーこと、鈴木謙介さんの新刊(『ウェブ社会のゆくえ』)にもシビックプライドの議論が紙面を割かれていましたが、この辺りの潮流を受けてのことなのだろうなと思います。


それから、2については本文で結構面白い紹介があります。

明らかに図書館サービスの手法に変化が見られる。「市民の図書館」は資料を借りて、自宅で読むことを強調したが、その手法は継承しながらも、施設を大型化し利用できる資料の幅を広げたり居心地をよくしたりすることで快適な公共施設であることを強調している。滞在型図書館あるいは居場所としての図書館などと呼ばれることもあるが、ここでは仮にアメニティ型図書館と呼んでおく。(根本彰『理想の図書館とは何か:知の公共性をめぐって』p138-139)

このすぐ後に、こんな話もあります。

「現在、良い図書館の要素としては、駅前や繁華街近くなどのアクセスしやすい場所、郊外の場合は広い駐車スペース、滞在して資料を利用するのに快適な施設、大きな開架スペースと豊富な新刊書供給、ビデオやCDの視聴やインターネット端末のりよう、貸出冊数の制限をつけずインターネットからも予約できる、というように、施設面を中心とした利用しやすさがきわめて重視されるようになっている。」(p139)

この辺りは、ショッピングモール(化)を特集している『思想地図β1』や、その成果を受けて書かれた速水健朗さんの『都市と消費とディズニーの夢  ショッピングモーライゼーションの時代』などの議論と明確に呼応するように思えます。
筆者である根本は、これを必ずしも好ましい傾向とみていません。
「知の公共性」とタイトルに入っていることからもわかることかと思いますが、消費としての読書を前提にした図書館、商業主義的な図書館は、害のあるものだと見ています。

消費としての読書それ自体は別段、いいも悪いもないのですが、知の公共性という観点から考えれば、望ましいと言えないのはその通りかもしれません。
資料収集に関する資金は不況でばっちり減っているという現状を踏まえれば、特に。




まぁ、覚書を作りたかっただけなので以上で。
読みやすいので、手にとっていいんじゃないかなと思います。
説教臭くもないし、経済的観点を常に考慮しているのは、とてもいいと思う。


図書館ってそもそも、自立した個人が自己教育の場として利用することを前提にしているっていうのが、改めて考えると面白いですよね。
一般的に言って、開かれた場でありながら、結構な「能力」を要求している。……とも受け取れるわけですから。
よく、生涯教育とはいいますが、「生涯教育としての図書館」と書いた所で何か明らかになるわけではありません。とはいえ、現実に様々な収入の人、様々な立場の人、年齢の人が訪れる場であるということは、ある地域の中に存在する図書館を見る時に、気に留めておいてもいいかもしれません。(この多様性は、ショッピングモールに関して言われることに少し似ています。もちろん、ショッピングモールの方が、図書館に比べて、地域をより「離陸」している傾向にあるとは思いますが)
卒論はジョン・デューイで書くのですが、彼が想定している市民もこういう市民だし、『学校と社会』『経験と教育』などでは、教育が地域社会にあるものを利用することが主張されるのですが、まさに図書館なんかはその典型例ですよね。
もう少し本気で考えるのもいいかな、と思いました。


2013年9月12日木曜日

@showitch さんの批評へのコメント――短歌、やっぱり衰退するんじゃないでしょうか。ただし…

短歌は衰退しますか――ポストモダンに防人はいない

今回の話題はこちら↑です。


2012年活動報告に書かれてある通り、実は京大短歌に所属しています。
会報誌?の『京大短歌』19号に、「短歌は衰退しました――短歌構造の素描と三つの短歌小説」という評論を書きました。
(なお、短歌小説論のうち、森田季節『ウタカイ』の一部分はこちらに掲載されています。)


反論というほどのことはありませんし、(今は京大短歌に興味を持った知り合いに貸していて、自分の原稿が参照できないこともあって)自分より自分の評論を読み込んでくれているのではないかと思います。
ありがたいお話です。

「ライトノベルが価値があることを前提としている時点で議論が弱い」というような、別の方の感想をお見かけしたので、そのような勘違いよりは辛辣さの方が心地よいものです。
辛辣どころか、吉田さんは丁寧に過ぎるくらいで。
(どちらかというと、ハイカルチャーとサブカルチャー、「純文学」と「俗文学」のような二項対立に還元したがる人にこそ、そのような偏見を解いて頂きたく書いたというのが本心なのですが。
つまり、ラノベを列挙したのは、「どうせ、こんな文脈知らないでしょ?」という煽りであり、釣りです。
実を言うと、どちらかというとラノベはそれほど沢山よみません。漫画は読みますが)



あの評論の意図は最初と最後とにまとめてあるので、お持ちの方は最初と最後だけでもご確認ください。

さて。その上でいくつかコメントを。

※手元に自分の原稿がないこと、院試の一週間程度前であることなどを踏まえて、「だらだらしたコメント」であること、「疑問に対する的確な答え」にはなっていないことについて、ご寛恕願います。


コミュニティ論としての側面


理論選択については書いている時点から疑問でした。
ポストモダンが進行していることは論じる余地がないと思います(東浩紀「ポストモダン再考」的な意味で)。
ただ、短歌にデータベース消費があるかというと、これは怪しいと思います(東浩紀『動物化するポストモダン』の用語)。

個々のコンテンツや出来事が、諸々の要素に還元された上で集積されていることが前提ですし(そうした営みは、更に「情報技術」によって大幅に勢いづけられた、技術的に高度な集積=データベース)。
それに比べて、短歌は情報技術や時代の変遷を前にして、何か変化を遂げたかというと、良くも悪くも「相変わらず」なのではないでしょうか。


なので、かなり本文での私の話はあずまんの言っていることと違うはずです(うろ覚え)
そのままの応用ではないはず。

※あずまんの例の本については、このへんとか、このへんとか。これが一番いいかというと疑問ですが。


うまくいかないかもしれないのになぜ、あの評論を書いたかということからお話するべきかもしれません。
「クラスタ」という言葉を使っているように、あれはある種のコミュニティ論のつもりでした。
短歌という磁場に集まった人たち、その集まりそのものを、まるっと対象にしたかったのです。

きょうびのコミュニティ論は、管見では以下のような所に話が既に向かっていると思います。
「もう開いている・繋がっていることは自明なところまでいったので、開きつつどう閉じるか、閉じることで個性・固有性を維持するか、開きつつ閉じることでどう変化に対応するか」

それなのに短歌ってなんか変なところがあるなぁ。閉じる所に寄り過ぎなんじゃないの?という疑問。上の話で言えば、スタート地点にすら立っていないように思える。
反論されるならば、これが杞憂であるならば、結構な話なのです。

阿呆陀羅経でも構わないなら簡単に作れるし、読むことも日本人なら簡単。
けど、それだけでは何の楽しみもない。
向こうから手を伸ばしかけている、クラスタ外の人にちゃんと短歌好きが手を伸ばさないといけないんじゃないの。
科学で言えば、科学コミュニケーションとか、アウトリーチ活動とか、啓蒙活動とか……こういうものに当たる営みが決定的に乏しい!と書きはじめる前は、そういうイメージを持っていたかもしれません。

いや、言えば言うほど安っぽいんですけど。
もっと、砕けた言い方を許してもらえるならば、「駄サイクル」(石黒正数)に見えてしまうことがあるんです。
歌壇ってちょっと大きい部室じゃないの?
部室の真ん中で、「芸術の真正性がー」「社会がー」みたいな話をされても、ちょっとなーと思うんです。


理論選択/創作の諸前提という側面


本当は、解釈学とかの理論(こういうイメージ)で話がしたかったのですが、力不足で。なので、とりあえず次善の策として、あずまんの理論を借りたのです。

リンクをご覧になれば、解釈学のアプローチによって、えぐり取られる側面が伝わるかと思います。
いかに当たり前のことを、当たり前に解釈することが困難かということ。
私たちが、何を受け取る時に、恐ろしいほどの前提を「自明視」するまでもなく前提にしていること。
その前提の洗練された集積のことを、「伝統」と言ったり、「文化」と言ったりするのでしょうね。

この前提を、コモン・ノレッジと呼んでいたのだと思います。
暗黙の諸前提=コモン・ノレッジもっと意識的に言葉化・可視化する努力をしてもいいんじゃないか。それをしないことで、作られている部外者への壁に気付いてもいいんじゃないか。

みたいな話だと思います。

心の習慣にしろ、暗黙の前提にしろ、互いの付き合いや作風の変化を織り込み済みにした批評にしろ……あんまりそれが肥大化しすぎると……ちょっと大きい部活の「部室」、タコツボ、内輪……なんと言ってもいいのですが。


いや、うまく言えませんが、それでいいのかな、短歌は。

……と思うのです。
そりゃ伝統あるし、魅力もあるけど。
でも、魅力的な「部室」ってどうなんやって思うじゃないですか、やっぱり。


「情報」について


ページ数まで挙げて頂いて、丁寧に読んでいただいている中、記憶で返すのがほんとに心苦しい。笑
ごめんなさい>< 今、短歌に興味あると言ってる友達に貸してるので、『京大短歌』が手元にないのです。
書いている当時も結構焦って書いていたので、使用語彙に甘さはあるかもしれません。


情報という言葉はまさに仰るとおりです。
「描かれてある文字数」です。解釈学について紹介したエントリでいえば、「ももたろう」についての文字列=「ももたろう」の情報です。

第一稿では、シャノン-ウィーバーの名前と共に、図まであったような気がします。デリダの名前はもっと意識的に出していく予定でした。前者は、出すだけややこしいかと思ってカット。後者は、やや力不足で。ディスコミュニケーションを強調すれば足りるかということで、あの程度にとどめました。


ただ、「それ以前の情報へのコメント」として、連作が機能するかについては結構怪しいと思います。
「短歌にコンテクスト構築能力はない」と断言していたらしいのですが、意識的にやっているなら、レトリックであり、政治的な意図だと思います。
実際には「弱い」と言うべきでしょう。

例えば、馬場めぐみさんの短歌研究新人賞の、選考座談会を読めば、少なくとも審査員のような「短歌クラスタを率いている偉い人」は、コンテクストを作るものとして読んでいないと言えるんじゃないでしょうか。
他には、誰だったか、「風邪をひいて、街を歩いて、イライラしたりして、最後は治る」という一連の体調変化・気分の変化の中にいる青年のシーンを、時系列にスナップショットで撮ったような連作を作っていたのですが、その歌会で「コンテクスト」に気付いていた人は誰もいなかったように思います。

※です↑

つまり、不可能ではないにしろ、結構現実的に無理なんじゃないかとは思います。そういう風に読むという「身体」を、短歌クラスタは持っていない。
すみません、今はこの2つくらいしか、いい例が浮かびません。


本文では『回転ドアは、順番に』をどう扱っていたか思い出せませんが(あれも連作みたいなものでした。詩もありましたが。大まかには章ごとに完結し、全体としてもストーリーになっている感じ。)、あれに収録されてる露骨なセックスの短歌が編集者には理解されていなかったそうですし。

普通の短歌人同士では下手に伝わり合ってきたこともあってか、部外者には絶望的に伝わらないことを自覚してもいいんじゃないかな、と。



んー。用語の混乱は結構あるような気がしてきました。
造語しちゃうくらいがよかったのかもしれませんね。



うろ覚えで書いていて、自分でも答えになっていないような気がしてきたのでここらにしときますw


短歌、やっぱり衰退するんじゃないでしょうか。
ただし、短歌クラスタが「流通」に注意を払うならば、その限りではないでしょうけど。

短歌って、消費のされ方、受け取られ方を含めて、想像以上に「通じてない」「伝わってない」んですよね。
枡野浩一さんとかはわかりやすすぎるくらいわかりやすい歌も多いし、ドラえもん短歌(でしたっけ)も「共通体験」を意識的に使っているわけですし。
そりゃ「文学」が好きな人としては、枡野浩一をくさすのが「かっこいい」とか思ってるのかもしれませんが、そんなのクソッタレだと私は思っています。
ドラえもん短歌、いいじゃないですか。枡野浩一、最高じゃないですか。

気に入らないなら、お前がやれ。
――と、批判を聞く度に思います。



おらああ! 俺がちゃんと布教やってるよ!!
アウトリーチやってるよ、既に私がっ!!!

……というお兄さん、お姉さんが沢山いることを願っています。




以下、9月14日追記。「長めの蛇足」
理論的な問題点を抱えている点、意図は多くの人に汲んでもらったという点を見ても、もはやこれ以上自分からこの評論について語ることはないだろうと思います。
本来私はただの引きこもりだし、最近バイトや院試対策、身内の不幸で全然歌会行けてないんですよね。だから、本当は様々な意味で、別の人の仕事だったのだと思います。


勝手に埋め込んじゃいますが、その点、下に挙げる発言には同意なんですよね。そういう方向を選ぶことには同意できる。
それは、おおまかに認識を共有できているからです。大まかな現状認識は一緒だけど、問題を見出すところが違うというだけで。少なくとも、私の思う「問題」の解決には一切貢献しないし、疑問点はあるけど。(でも、この点も「逆もまた然り」、です。)

周回遅れのポストモダン(プレモダンである日本が周回遅れで先進的になる)という昔ながらの議論の構造を、宇野は焼きなおしているわけですが、それを個々の島宇宙=クラスタで主張しているのかなと思います。この種の議論のバリアントでしょう。

とはいえ、それも「開くことが自明になった上かな」というのが本心でして。

だから、そういう風には思うけど、 ほんとの所。

まさかあ
「馬人が悪い」が「猿人が悪い」にかわってるだけよ
何にも違わないわ 
そうかなあ 
そんなもの
なんにも違わないのよ
なーんにも

同じ生活形式ならば、時には、主張の違いなど些細な問題なのかもしれません。短歌のことが好きなら、なおさら。

2013年9月11日水曜日

スパイ小説として「ももたろう」を読んでみる――解釈学的循環を逃れられないこと




解釈学的循環の話をするかもしれない


※今日も今日とて、すごいざっくりした話をします。
※気分転換に、推敲も事前に考えもせずに書いています。
ももたろうをスパイ小説として読み解く妄想をしてて、その勢いで書いています。


ガダマーの解釈学的循環他、細かい用語は、ググっていただくとして。
理論の細部はさておき、新科学哲学と言われていた思想潮流が訴えていたこと――例えば、観察の理論負荷性やパラダイム――は、それと大きな流れの上では連帯するものでした。
クワイン(全体論)とデイヴィッドソン(特に概念図式の話)の議論なんかもそうですね。
そして、ローティの「エスノセントリズム」も。

まぁ、細かい話は置くとして。

ももたろうをみていきましょう。
ももたろうを通じて、解釈学的循環って具体的にどんなプロセスかを見てみます。

「リテラルに(文字通りに)」読むとか。
「解釈抜きで」受け取るとか。
「主観を廃して」受け取るとか。
……よくこんなことを言ったりしますが、そんなことは無理ですよ的なことを言いたいのだと思って頂ければ。


ももたろうは意外とむずかしい?


「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました」

「むかし」とはいつだろうか。紀元前5世紀くらいか。この物語を読んでいる読者の時間が、期限後45世紀だったとすると、「むかしむかし」は20世紀辺りのことだと思っても仕方ないかもしれない。
少なくともこの時点ではなんの不都合もない。

では、「あるところ」とは?
紀元前5世紀のカムチャツカ半島かもしれません。
カムチャツカ半島に当時人がいなかったのだとすれば、後に続く「おじいさんとおばあさん」なる登場人物は、未来から避暑に来て、半年くらい過ごしているタイムトラベラーなのかもしれません。
少なくとも、これらを否定する情報はありません。
読者の世界で、タイムトラベルが一般化していて、更に、歴史が大きく断絶した結果、タイムトラベルの技術は人類の歴史が始まった時からあったと考えるのが「常識」であったとすれば、この解釈のラインは、それほど突飛ではないかもしれません。


「おじいさんとおばあさん」という言葉も厄介です。時代によれば、平均寿命がごっそり違うでしょう。文化次第では、40歳くらいで、もう「老人」扱いしているところもあるかもしれません。
現代日本における老人なら、「後期高齢者」をイメージするでしょうか。先に挙げた文章において、「おじいさんとおばあさん」は年金を受け取っているのでしょうか。年金というほどではなくても、社会保障制度があるのでしょうか。
身分はどうでしょうか。王族であることを否定する情報もありません。庶民かどうかもまだわかりません。(もっと言えば、どのような生活をしていれば、彼らの生きている文化圏では、「庶民」とされるのかということを判断する根拠も一切ありません)
しかも、この時点では、「犬のおまわりさん」って歌もあるみたいに、「犬のおじいさんとおばあさん」であることはあり得るかもしれません。


あえて突飛な例を沢山あげてみましたが、私達は、与えられた情報・現象に向かい合う時に、何らかの「理論」を既に前提しています。
ももたろうの解釈で、「理論」というと大げさかもしれません。解釈学という分野では、「先入見」とよばれます。偏見ではありません。前もって持っているイメージとでも思ってください。

「おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」

柴刈りが隠喩である可能性は否めません。
隠喩でないなんてことは誰によっても、何によっても決められていません。
例えば、「大嫌い!」という言葉が「大好き!」にしか聞こえないシーンが存在することを多くの人がイメージできるように、「文字通りに」受け取ることが正しいとは思えないことも現実には多く存在します。
しかし、この物語の語り手の意図(speaker's meaning)は、この時点ではなんとも言えません。文字通りの意味(word meaning)はどうでしょうか。山に行って「柴刈り」をする。
てか、柴刈りってなんでしょうね。普通に薪集めだと思ってたんですけど違うんですかね。

このおじいさん、実は007、ジェームズ・ボンドの変装で、某国への潜入任務に携わっており、山へ行くのは、その山を超えた先にある某国の会議拠点を調査に行くのを隠す「建前」なのです。
つまり、「柴刈り」は、薪集めではなく、「柴刈り(意味深)」! 会議を傍受しに行くことを意味しているのです。

とりあえずこういう風に読んでみましょう。
当然おばあさんは現地の協力者ですね。
挿絵や動画で、異なる「おじいさんとおばあさん」像が展開されていますが、それは某国による歴史の隠蔽工作ですので、信ずるに値しません。


「おばあさんが川で洗濯をしていると、ドンブラコ、ドンブラコと大きなモモが流れてきました」

大きな桃ってことは相当大きんですよ。半径3メートルくらい。
そうなると、川もすごい大きいことになっちゃいますね。
でもそうなると、川で洗濯なんて危ないでしょうから、国が工事をして、洗濯希望者が安全に仕事をできるようになっているのでしょう。
この国で、「桃」という単語が出てきた時は注意が必要です。
いわゆる桃と林檎と梨とみかんと葡萄の区別がなされない文化で、これらを合わせて「モモ」と呼んでいたのでそのうちのどれかは不明です。そういうことにしておきましょう。

あれ。でも、おばあさんは「桃を家に持ち帰った」と続きます。
私たちの知る桃だと大きすぎて持ち帰れないでしょうから(おばあさんが筋肉モリモリのマッチョマンであるか、サイキック能力の持ち主である可能性は捨て切れませんが)、「モモ」の中でも、葡萄である可能性が高そうです。
葡萄なら、そのうち一粒をもぎ取って持って帰ったと考えられます。おばあさんが筋肉モリモリマッチョマンじゃないなら、きっと葡萄を一粒持ち帰った。


あれ。でも、その中から「桃太郎」という赤ん坊が生まれてくるんですよね。
桃太郎がエイリアンでないなら、私と同じ人間なら、私とそう変わらないサイズで生まれたはずです。
いくら半径3メートル級の葡萄だとしても、そのうち一粒だったら、人間としてサイズがおかしいですよね。ちょっと小さすぎる。

ということは、先に立てておいた「大きさは半径3メートルくらい」という先入見が怪しくなってきました。
矛盾を無視して進むのは厳しいでしょう。
修正を加えることにします。

大きいといっても、これは誇張で、実際はサッカーボールくらいだった。

こんな風にして、とりあえず「整合的」にももたろうを読み通すとします。


そんな私はある時、精神分析の講義を聴いて衝撃を受けます。
フロイトは、「水は出産に関係する」と言っているそうではありませんか!

一旦、安定期に入っていた私の「ももたろう解釈」はゆらぎます。
おばあさんは拾って帰ったと言っていたけど、元々妊娠していたおばあさんが、出産したことを伝える物語だったんだと解釈を修正することにします。
そうすると、川のサイズも小ぶりでも構わないでしょうし、おばあさんも「おばあさん」とは言いながらも、実は出産適齢期くらいだったという可能性も出てきました。

桃は安産を象徴していて、この物語が語られた文化圏では、直接「出産」について語ることを避ける傾向にあるという話を歴史学者から、私が小耳に挟んだとしましょう。
このデータを得た私からすれば、フロイトの線で解釈していく根拠がより多く集まったと言えるでしょう。


ただのスパイ小説かと思えば、ジェームズ・ボンドは順応しちゃって、そこで現地の協力者との間に子供を作っちゃうという、大いに所帯染みた物語だったのです。



定義の循環とは違うよって言いたかったのかも。それと叙述トリック



……みたいな。

こんな風に、解釈って無限に増殖するんですよね。

これほど単順なお話ですら、信じられないくらい多くの想定(先入見)を必要としているかわかるでしょうか?
伝わればよいのですが。

理解も、お話を聞きながら、この登場人物の年齢はどれくらいで、どんな性格で……とか想像しますよね。
それで、時々「あ、あの印象は間違っていたのか」と気付くことがあります。そうなると、その登場人物に関する情報全体が、再組織されることになって、印象全体も修正されます。

行きつ戻りつしながら、私達は物事を理解していきますよねーってかんじです。
耐え切れないほどの解釈上の矛盾って、実は原理的にはないんだと思います。
矛盾に対して、それを回避する「パッチ」を当てたり、小さい齟齬なら無視して通り過ぎることもできますから。
(それに、私たちは現実の矛盾を、無視したり、適当に「わかりやすく」「単純に」解釈してしまうことで、避けて通っています。
例えば、陰謀論とかは、現実の複雑さに対する対応として典型的な例かもしれません。矛盾を無視するだけでなく、自分の解釈のラインを否定するような証拠をそもそも存在しないものとして扱ったり、隠蔽や誤認の結果とみなすことによって対処します。)


よく「叙述トリック」ってありますよね。
あれは解釈学的循環をうまくつかったお話ですね。

例えば。
奈須きのこ『空の境界』で、登場人物の「式」は、一人称「俺」で展開していく。
どうやら現代日本の話ですし、「俺」っていうと、普通「男」が使う言葉だし、読んでいるとツンデレバディと仲良くやってる小説っぽいなぁと読むわけです。
しかし、ある時、ある登場人物が式を指して、「女の子なんだから」と言います。

今まで抱いてきた「先入見」のままでは、安定しえないほどの齟齬を抱えることになってしまいます。
最初のあの会話は、事実上相思相愛の男女の会話だったのか!と過去のやりとりの印象まで修正せざるを得ないでしょう。

他にも、漫画なら『式の前日』なんてのもありましたよね。表題作は、仲のいいカップルかと思ったら、実は姉弟でしたーってオチです。
あ、とんでもないネタバレ食らわしましたね。気にしないでください。
叙述トリックバレたくらいで、面白くなくなる物語なんて、その程度です。『式の前日』が、どちらかは各自の判断に任せます。


認識にガツン!と修正をせまるような、ズレを与える。このズレこそが、読者にとって強烈な体験になるわけですね。そして、その体験が感情を強く動かす。
その意味では、ミステリでよくある「ミスリード」も同じメカニズムとして考えられそうです。
リプライもらって気付きましたが、ヒッチコックの「マクガフィン」は、どう位置づけられるでしょうか。ちょっと考えてみるのもいいかもしれません。


解釈学的循環とは、ざっくり言って、物語の全体の理解は部分の理解に資するし、部分の理解は全体に資する。行きつ戻りつしながら、絶えず修正していく……という話です。


言葉の印象で、「解釈学的循環」を「定義の循環」のような意味で使う人が多いのですが、そんなことはないですよ。


徒手空拳では何も読み解くことはできないってことですね。それと同時に、「先入見」抜きで、私達は物事を見ることができない。徒手空拳であることもできない。
何らかの知識なり、習俗を持っているから、言い換えると「先入見」を持っているから、物語や言葉、そして世界を受け取れる。
しかも、絶えずその見方を修正しているわけです。
ここに「対話」の地平をみるのも、自然な発想でしょう。


ハイデガーの弟子筋で、彼に大きく影響を受けながら、新たな哲学の地平を拓いたハンス・ゲオルグ・ガダマーは、この先入見に関わるものとして、「伝統」という語彙を持ち出したりするわけですが……いわゆる「伝統」とどう違うのか、彼の意図はなにか、色々考えることはありそうです。
まぁ実際に本を読んでください。

2013年9月8日日曜日

不安の周りにあるものを無作為に書き出すこと

※どうでもいい日記です
※若干精神的に疲れてます
※まとまりはいつも以上にありません



最近、自分の淹れるコーヒーがマズいのです。
むろん、院試を控えているせいだってこともわかっているんだけど。

椅子にどーんと座って、眩しいくらいに英語ができた5,6年前の自分のことを思い出した。
失敗したコーヒーはあんまり苦いので、今まさに飲んでいるコーヒー以外のことを考えなければやっていられない。今の自分よりずっと英語ができた。


夢と変化、頑張った記憶


夢だけは昔からあった。
自分はそれでも変化していくから、少しずつ自分の夢も変化していく。
やりたいことや、やり甲斐よりも、「こういう自分になりたい」っていう憧れ抜きに自分は頑張れないのだと思う。
だから、大学の「勉強」とされるものは、強制されない限り、全然苦痛ではないし、むしろ楽しい。



高校時代、自分に言い聞かせるために、「緊張するのはそれだけ頑張ってきたから。不安になるのはそれだけ自分に対して真剣だから」ってロジックひねり出してた。
緊張するのは頑張ってきたから。不安になるのは本気だから。
……だったかな。正確な表現は忘れましたが、Z会の応援コピー?の佳作かなにかになった気がします。
この言葉は、それなりに正しいと思う。


頑張った記憶のない人は、緊張しない。緊張するだけのもののを、過去に持っていないから。
過去は冷静に存在したりしない。過去は「記憶」という形で、常に現在に影響している。
不安だって同じだ。心配という言葉が、「心を配る」と書くように、自分に対してどれだけ真剣に向き合っているかということに関わる感情だと思う。


けど、この言葉はただそれだけでは指摘でしかない。
今の自分には効かない。指摘だけで変化が起こるほど、今の自分は繊細でもないし、過去の自分とも隔たってしまったんだと思う。


夢と賢くなさ、真面目系クズ


唐突に、高校時代の恋人のことを夢にみた。今日の話。今朝の話。
婚約して、地元の兵庫県で同棲を始める。親も公認で、親が顔を出しに来たりする。
露骨過ぎて、フロイトも飽きれるんじゃないかと思うくらい。


別に今も好きってほど最近の話じゃない。名前を思い出すのも久しぶりなくらいだった。
今抱えている不安や後悔があまりに募って、過去に対して抱いている不安まで掘り起こしてしまったというだけのこと。
けど、ため息ではリセットできないくらい、なんかもう疲れた。


大学に入ってから、自分は随分変わってしまったと思う。
変わってよかったと思うことも多い。
色んなことに心から興味を持って関わるようになったし、知識だって増えた。それを扱うのにも、少しずつ慣れてきたとも思うし、以前のひょろひょろした自分が微笑ましく思えるくらいにはなった。
けど、そういう即物的な頭の良さと引き換えに、「賢さ」を捨ててきたような気がする。
そこで触れたのは、「頭が良くても、賢くない」ということだった。「スマートに振る舞えても、(必ずしも)幸せにはなれない」と表現してもよかったと思う。


世間的には「頭のいい」大学にいて、(就活的な意味とは違うけど)かなり「意識の高い」テンションで勉強を4年間続けてきたと思う。
専門にも縛られないで、かなり広範に、しかも自分の武器になるように勉強してきた(はず)。

自分は『となりの怪物くん』が好きなのですが、若干自分は雫に似ていると思います。
服装に気を遣わないのもそうだけど。笑
自分のしたいこと、自分のためになると思うことをひたすらやっている。
怖いというわけでもないのだけど、誰かに真剣に相対するということがとても難しくなっている。
そうする「習慣」を失うということは、そうする「筋肉」を失ってしまうことなのかもしれない。誰かに向き合っているつもりでも、自分の「筋肉」が言うことをきかずに、そちらを向いてくれない。
意志と現実がズレていく。


友達って関係はとても楽だ。
困ったらかけつけるし、そいつのために何かするのが惜しくない。本気で心配する。
けど、「人生を背負ったり」はしない。
恋愛というのは厄介で、多分人を救うのにも似ている。

西尾維新の物語シリーズで連呼される「僕は助けないよ。君が勝手に助かるだけさ」という言葉から引き出せる論点はいくつもある。
今回の問題に即して引き出すなら、「複数人の人生を背負えるほど、人の器は大きくない」っていう有限性の指摘なんじゃないかと思う。
だから、猫物語の羽川翼の言葉は重かった。
ちゃんと恋人である戦場ヶ原ひたぎを選んだ阿良々木暦がかっこよかった。

あんたは一生ずっとそうやって、大事な言葉は絶対に言わないで、
 自分は関係無いって顔して、ずっとひとりで、生きてくんだ!(「言の葉の庭」)

自分はずっと友達に囲まれて、一人なんじゃないかって。
まぁ、それはそれでいいんだけど。
冷たい人間だってわけじゃないと思うけど、一生他人の人生の面倒なところに、自分は関わらないつもりなのかって。
そういう「頑張らなさ」が、院試への不安の遠因なんじゃないかなとか邪推しちゃうくらい。
(ちなみに「言の葉の庭」のセリフはこちらからのコピペ)

これだけ書いておいて、自分のことを、それほど頭がいいとも思えないけれど。
そういえば、『言の葉の庭』のBlu-ray買っちゃった。


「逃げなかった記憶」とか


…雫ちゃん キャンプの時の話を覚えてる?
あの時 オレは 「後悔のない選択は正解だ」 って言ったけど
あれには続きがあって
何を選んでも 
きっと人は 選ばなかったもうひとつの道を想像し続けるんだ
『となりの怪物くん』10巻

引用参考はこちら
モチーフとしては珍しくないですよね。村上春樹が繰り返し描いているテーマのひとつはこれだと思います。最近なら、坂上秋成さんの小説『惜日のアリス』も部分的にこれを扱っていたと思います。
一番見事に描いたのは、東浩紀さんの『クォンタム・ファミリーズ』の「35歳問題」かな。

何かを決断したり、選択したり、悩んだり不安にかられる時は、いつも「別様の」人生やあり方をしている自分を想像してしまいますよね。
想像したところで、元気になるのか、しょっぱい顔になるのか、希望を抱くのか、今の自分を改めて引き受けるのか、後悔が増幅するのか……それは一切わかりませんが。

「何かを選択する・引き受けるという時、自分が選んだことだけじゃなくて、選べなかったことに取り囲まれている必要がある」
という趣旨のことを、どこかであずまんが言ってた気がする。


『3月のライオン』2巻
自分はやる気を出すために、漫画家を目指す『バクマン』とか、テニスのプロを目指す『Baby steps』とか、夢に向かうタイプの漫画を読んだりします。
他のみんなが、典型的な青春を生きている中、自分たちは地味な努力を続けているようなお話。もちろん、その中にもその中でしか感じられない「青春」があるのだけど。

不器用な自分をディスったりしてみたわけですが、かといって自分を自分で見捨てられるわけでもなし。
心から嫌いになれるわけでもなし。

(そもそも、自分に対して「嫌い」とか「好き」って判断を持ち出すのが実はよくわからないんだけど)


「でもききたかったんです 桐山さんはプロになってから一年遅れでまた学校に行かれてますよね。あの… それはどうしてですか?」
「…えーと 僕は本当に将棋にしか特化してないんです。人付き合いも苦手だし
勉強は好きだけど、学校にはなじめませんでした。
人生を早く決めたことは後悔していません…
でも 多分 「逃げなかった」って記憶が欲しかったんだと 思います」
『3月のライオン』2巻

先の画像は、この会話の後にくるカットです。

私には逃げた記憶も、逃げなかった記憶もあります。
まぁ、多くの人はそうだと思いますが。
自分を励ますほどの、大きな「逃げなかった記憶」はありません。
これまた、多くの人はそうだと思いますが。

私は本当に色んな人に助けられていて、その人達に早く形にして何かを見せたいと思う。
これは長らく私を駆動している行動原理でした。
もう何人かに対しては、「もう間に合わない」ことだったりします。だから、生き急がねば、とも思います。

私にとって「逃げなかった記憶」とは、結局のところ、何をするにしても避けられない、この行動原理を、ささやかにでも達成してしまうことによって得る他ないのだと思います。
「物」で示したい。
自分にとってそれは、「本」を出してしまうことなのかもしれない。

そう気付いたのは1年ほど前のことなのに、もう忘れてしまっていた。
不安になると単順なことも思い出せなくなる。

『3月のライオン』6巻

昔から一通り収集したり、習熟すると「飽きてしまう」癖がある。
それに、自分の考えはかなりすぐに変わってしまうとも思っている。
それもあって、座右の銘なるものを、未だかつて持ったことがない。

けど、この人に対して恥ずかしくない生き方や行動をしようと思っている人は何人かいる。
『3月のライオン』の中にもいるし、『まおゆう』の中にもいるし、『サマー/タイム/トラベラー』の中にもいる。
虚構の登場人物と張り合うのは難しい。
実質的に自分と向き合うことを強いられているから。

あっそうか。不安なのは、自分と「向き合っている」からだったか。
他人の人生と関わる以前の部分で、自分に達成する必要のあることがわかっているなら、自分という他人に対しては真剣に向き合えているなら、とりあえずはそれでいいのかもしれない。



長々書いてすっきりしたところで。笑
まとまらない記事書いちゃってすみませんw
その内消すかもしれませんが