2013年2月25日月曜日

誰かが死んだ時の呼吸法β


おばあちゃんが死にました。
キーボードで打ちながら、とりあえず全部を言語化したい気分になったので。
思いつくままに、思いつく順に書きます。

友達の一人には、「しっかり送り出してあげてね」と言われて、ああそうか、そんな言葉があるのか、となんか普通にしっくり来てしまったり、そんな感じで、2月25日を迎えたのです。

ようやく、自分の頭と身体で色んなものを受け止め始めたような歳なのかな、自分は。父方の祖父母は両方いないので、親類に限れば、そういう風になってから最初の葬式かもしれない。
よくわからないまま、沢山の法事に参加してきた気がする。

割りとおばあちゃんっ子でね。おじいちゃんっ子でもあるけど。
母方の祖父母の家に長いこと預けられていたので、思い入れは色々あるんだなぁと今更認識しているところです。
おじいちゃんが、「この黒くなってるとこ」と指差す壁があります。
窓の傍です。そこから公園と道路が臨めます。小学生がよく遊んだり、集まったりする場所なので、幼稚園・保育園くらいの年齢の時、そこに椅子を持って行って、じーっと見て、手を振ったりしていたそうで。

「昔、壁塗ろうかって思っとったけど、やめたんや」

私は、そのことを覚えていませんでした。そんなことがあった気もするし、他の窓でもやっていた気がします。
お兄ちゃんがいるのですが、最初は真似っこしてやってたみたいですね。真っ黒になった壁に触れてみても、記憶のない過去があるのだな、と、他人の子供を見ているような微笑みが浮かぶばかりで、私の過去ではないような気がします。
でも、あの家には、自分の記憶も染み込んでいて、祖父も亡くなれば、いつか廃墟になってしまうのでしょうね。
父方の祖父母の住んでいた家では、廃墟というモチーフが私の中で、やけに前景化しています。私が記憶を刻んできた場所を、過去の蓄積された、私の痕跡であふれた場所を、失ってしまうことは、自分の存在の一部がそのまま消失するかのような、怖さがあります。
ずっと大切にしている、このぬいぐるみ達は、私が死んだらどうなるのだろう。私にとって大切なこのぬいぐるみは、他の人にとって大切なぬいぐるみではないから、捨て置かれるのだろうか。……小さい頃に直面したこの問いに重なるものかもしれません。


祖父も祖母もずっと体調が悪かったのです。
祖父は、かなり歩くのに困難を抱えていて。
祖母はもう、私のことを覚えていませんでした。2,3年前からは、敬語でした。認知症です。まぁ、辛いですが、ありふれている出来事なのかもしれません、実際は。
入院する頃には、おじいちゃんのことも覚えているのかわかりません。
「知っている」人ではあったでしょうが、おじいちゃんのことを誰かわかっていたのかは。



「わしが殺したようなもんや」だなんて、言ってしまっていたおじいちゃんに対して、私は、アルカイック・スマイルみたいな曖昧な表情で首を振るしかなくて、出張から帰ってきたばかりの父の否定の言葉に任せる他なかった。
こんな、小さな出来事を、私は一生、後悔するのでしょうね。



おばあちゃんは、半年か一年くらい前かな。老人ホームみたいな所に週の何日か行って帰ってくる生活をしていました。
お母さんやおじいちゃんが言うのによると、「帰りたい」「帰して」と言うのだそうです。

今月頭の手術をして、その後にまた肺炎を起こします。
過去に肺炎が駄目になったことがあって、今回はクリティカルだったようです。詳しくは知りません。
おばあちゃんは入院しました。
私が最初見舞いに言った時は、口にチューブを突っ込まれるのを嫌がっていました。
けれど、自分で呼吸することができないのです。

「外して」

と声をだすこともできず(チューブを喉に直接入れているので、空気が入らない。だから、声どころか、一切音がしないのです。)、ただ、それを外そうとするのです。
しかし、看護師やおじいちゃんの説明で、外してはいけないものだと理解すると、今度は、体中に付けられたコードを外そうとする。

心拍数や血圧を測るものとか、点滴とかですね。
最終的には、タオルで、ベッドに手を縛られます。ちょっとは遊びがあるのですが、手は手すりにタオルで固定されています。
オデュッセウスは、セイレーンの歌声に対向するため、マストに縛り付けさせたと言いますが、祖母は何と戦うために縛られたのでしょうか。

声も出せない、誰かもわからない私の手を、涙も拭えない祖母は触りました。
長く病室にとどまっていると、帰りたいのか、外してほしいのか、とにかく、暴れだすのです。
一度、呼吸器をつないでいるチューブの接続部分を首振りだけで、外したほどでした。

けれど、表情すら制限されているので、目だけでコミュニケーションするしかない。
私には、おばあちゃんが、「生きたい」と言っているのか、「死にたい」と言っているのかわかりませんでした。
「帰ってくれ!」と思っているのか、「帰らないでくれ」と思っているのかも。

どのような仕草も、私にはダブルミーニングでした。相反するどちらにもとれるのです。

インフォームドコンセントとかって言葉はあるけど、実際陥ってみないと、自分がどう考えるのかは、やはり想像でしかないのだな、と思いました。



私の大好きな作家「伊藤計劃」の文章に、「サイボーグな俺」というものがあります。
短いので、是非読んでください。特別洗練されたものではありませんが、好きなエントリです。

おばあちゃんは、ある意味でもっとサイボーグでした。
……いや、本当の所を言えば、「人形」に見えたのです。
十分な寝返りをうつこともできない。声を出せない。
すっかりやせ細った手足。
栄養失調の子供を連想させたし、不十分に餌を与えられたチキンにも見えた。後者のように見えたことに吐き気がした。
骨と皮だけど、筋肉だったものは存在するから、そのように見えるのでした。
元々大きくなかった祖母は、本当に小さかった。



病室についても少し書かせてください。
社会学者のアーヴィング・ゴッフマンという人がいます。儀礼的無関心という概念を提出した人、と言えばとおりはいいでしょうか。
彼が「全制的施設」という議論もしています。
その彼の議論の延長で、医者の方が、病院についても話しています。このエントリのことを、病院でずっと考えていました。
「全制的施設」については、このサイトも参考に。

私物を置くことができませんでした。
祖母を表すものがほとんどありませんでした。私にとって記憶のあるものは、祖母にかけられた「青い薔薇」の柄のタオルケットだけでした。
それ以外には、いくつかのありふれた着替え(病院の傍にあるしまむらか、どこかで買ったやつらしい)でした。
彼女の来歴や人格、過去を示すものはありませんでした。
頭の手術のために、丸刈りにされた彼女は、性別すらも剥奪されていたのかもしれない。
見かけ上の区別も、振る舞いの上での区別もつかない。
服装のボタンの付け方くらい。


病院は広く、ベッドがだだっ広い空間に、いくつかあるだけでした。
両手を横に広げた人間が手を繋いでも、4人分くらいは最低でも離れていたかもしれません。
基本的には重篤の患者、ばかりのようでした。
隣のベッドは、植物状態の方でした。

何も人に伝えることができず、首を振ったり見つめたり、触れたり、身体を暴れさせたりしかするこのできない祖母は、もしかしたら意識があることを恨んだかもしれません。
遠くにテレビは付いていましたが、祖母の耳では聴こえなかったでしょう。
寝ることしかできなかったのですから。
この時、乙一の『失はれる物語』を思い出しました。
文学ってなにかなって思っちゃいました。結構好きな話でもあったので。悲しいけど、心に残る話だなと思っていました。
しかし、祖母を見つめていたあの時間に限っては、皮肉でしかなかった。
ちなみに、『幸せはは子猫のかたち』という話が、乙一さんでは一番好きです。存在しない人とのコミュニケーションは、とても、切なくて、綺麗で、嬉しくて、悲しい。



いつだったか、帰省の時に、電車に乗って帰る時、この曲が頭の中で流れて消えませんでした。
病院でオデュッセウスだったおばあちゃんを見た時、我知らずこの曲のことを考えていました。
何もない空中に手を伸ばして、首を振る姿に、この歌詞がダブったのです。


ENEさんは、信じられないほどの美声。こんなクリスタルクリアの声はなかなかない。とても好きな方です。

「もしもこの両腕が自由なら」と。


もう一つ思い出したのは、FRAGILE~さよなら月の廃墟~というゲームでした。
祖父を失った所から始まる何もない物語です。いや、物語と呼べるべきものはほとんどないんですけど。終始切なく、終始綺麗なのです。

なんて言うんでしたっけ。
眠るおばあちゃんの唇を、濡らした綿棒で濡らすのですが、四肢は硬直しているのに、綿棒ごしの肌は記憶の中にある、死人のそれよりも、ずっと柔らかいものでした。
手嶌葵さんの「光」を思い出しながら、自宅に帰りました。


今まで経験してきた、他人の死は、事後的に知らされるものばかりでした。
おばあちゃんの場合、悪化はするだろうが、治る見込みはないと言われていました。
結局、二週間、チューブをツッコまれたまま生きました。
いつ死ぬかわからないから、と言われて二週間。会わせたい人がいるなら、会わせておけと言われて二週間。
ずっと死を突き付けられる時間でした。
どうでもいい会話や意味のない頭からっぽの娯楽を消費し続けるのが、私にできることでした。
そうでなければ、うまく息ができない。

早く結婚したいと思うのも、子供を見せたいと思うのも、小説家になりたいと思うのも、全部「モノ」として示せるからなんだろうな。
今年きっと小説家になりたいです。
私は早く報いなければならないんだろうと思います。
人生は短いですが、その時でないと駄目なことがきっと沢山あって、取り返しのつかない後悔を抱えて生きるのは、きっと地獄なのです。
こんな若造でも、そんなことくらいはわかる。それが頭にちらつく度に、めまいがする。
急いで生きなければ、的なね。


何かもっと色んなことを考えたり、吐き出したい気がしたのですが、とりあえずここで満足します。
何が言いたいのかまだ自分にもよくわかりません。
ああ、なんか。

2013年2月7日木曜日

コンテンツ生成環境と雑誌文化

創作の表現環境、消費環境とかについて、ちょっとある人と話してた。

何から考えたことや喋ったことをメモしてみる


>3つの場から


作り手:コンテンツを商品と捉えるほどに、要素の組み合わせをするだけの存在に近づく。要素とパターンの組み合わせで出来た、設定とキャラクター、世界観の上でのシミュレーションの問題になる。このシミュレーション感は、さっくり「物語消費」の図で理解する方がわかりやすそう。
どこからともなく拾ってきた画像(物語消費)

編集?:邪推すれば(いや邪推しなくても、そういう所多少はあるだろうけど)、要素とパターンの組み合わせの問題であると捉えられるなら、書き手は「出来上がった人」(谷川流でも、支倉凍砂でもいいけど)以外の場合は、誰が書いても困らない。使い捨てカイロ感ある。
不況の時は、どんな企業でも、人材を腰据えて育成したり、囲ったりできないもんだし。




受け手:意識的に読まない限り、作家に付くより、要素・パターンに付く。例えば、ある友人は読書好きだが、SFに偏る。ある友人は、流行のラノベしか読まない。


※当然ながら、あずまんの『動物化するポストモダン』(Kindle版もあった)の、データベース消費を念頭に置いてる。キャラの要素(素直クール、猫耳とか)、物語のパターン(異能バトル、学園もの、水着回とか)そういう感じに、分割され、蓄積され、参照され、消費され、更新され、また蓄積され、分割され、組み合わされて……。

※大塚英志の新著『物語消費論改』(アスキー新書)はどうなのだろうか。面白いという話も聞くが、大塚好きの人だったし、目新しい論点・面白い論点があったかどうかについては、特別何も聞いていない(ということは多分、そうなんだろう。多分)。ちなみに、西島大介さんの『定本・物語消費論』(大塚英志)の表紙は結構好き。


実際、こんな見立てくらい、何年か前、それこそ『動ポモ』くらいから言われてたよね。。。。
あるパターンが受けた時にそれが群がって試される様は、イノベーションと追従の関係を小さい範囲で見ているような思い。
これにぴったりくる用語を知っている。経済用語である雁行形態論、一つ下の水準で同じことをしている。

雁行形態型発展とか言ったり、雁行的~という使い方もする。
日本人の赤松要が命名したのだけど、私は、現代の「近代システム論」の極北であるジョバンニ・アリギの本でも見た。彼のような人も使うくらいだから、経済系では分野を問わず流通しているみたい。(というのも、近代システム論はマルクス主義の影響が強い。)
参考までに、松岡正剛の千夜一千冊の、アリギ『長い20世紀』。私が読んだのは、『北京のアダム・スミス』という大著。朝日の書評サイトでは、柄谷行人がこの書評を書いている。(松岡も柄谷も、それほど参考にはならない)


>何に付くか

消費者が着目し、それによって消費行動を行う所のものって色々あり得る。
漫画なら……

作者に付く
要素に付く
雑誌に付く

雑誌という項は特殊だろう。雑誌は、消費者に何を要求するのか。消費者は、雑誌に何を要求するのか。
雑誌と消費者の関係で目立ったものは、捨てられること、全てを読む必要がないこと、元から内容の全てが目的ではないこと。
これは、学者や研究者の、学会誌やジャーナルに対する態度に似ている。この場合は捨てたりしないけど。

『サイバースペースはなぜそうよばれるか』
サイバースペースは、ネットが体現するものとしては……アレだわ。大体こういう議論と考えてもいいと思う。あるいは、セカンドライフよりは、ツイッター・FBでしょ、みたいな議論。
この時空間同期的なスペース概念、これの失効を思い出す。
雑誌も似たようなことになるのかな、とか妄想したり。つまり、雑誌という概念が生活やライフスタイル、欲望に追いついてない。


思えば、雑誌って、単に持ち歩けない。タブレットとかあるし。週や月単位でも読みたいコンテンツはある。けれど、読みたい雑誌はない。



紙の辞書の論法と同じで、設計的に「出会い系」なんだという説得はありそう。
でも、検索やSNSを通じて、十分コンテンツに出会えてる。雑誌では面白いコンテンツに出会えなくなっている。
この感覚は選挙に近い。「私の好みや興味を体現してくれている」と雑誌について信じられなくなっている。そういう感じがする。


雑誌がコンテンツを作っている感じもない。これも、選挙に擬せられると思う。何かというと、アメリカ大統領選挙における「連合」という発想。
大統領選挙の打ち出しているポリシーは、党ごとでカラーを見ようと思っても、大統領選の歴史をちょっと見ればわかるけど、微妙にわかりにくい。共和党が民主党みたいなこと言ったかと思えば、民主党が共和党みたいなこと言ったりすることもある。
これは、どんな支持層がその党を支えているか、ということに支えられている。

町田智浩さんが、2012年の大統領選挙の時に、歴史を振り返ってくれてます。こちらも読めばわかりよいかな。
アメリカの場合、連合単位で動きが決まるから、下から、下から、弱い力がちゃんと働いて押し上げるから、トップがいなくなっても、「俺がやる」「私がやる」って、状況になりやすい……というさっくりとした理解を持ってる。
ちょっとポジティブ過ぎる理解だけれど。

いや、擬せられる…と思ってたけど、それほど似てないな。 まぁ、いいかw もうちょっと考えてみる