2013年7月9日火曜日

ニコニコ学会βとその周辺――『進化するアカデミア』と『これが応用哲学だ』

2012年のニコニコ超会議には参加して、ニコニコ学会にも張り付いていました。
そして、かつてニコニコ学会で、宣伝されたことのあるボカロ総合誌(批評誌)の『VOCALO CRITIQUE』のスタッフでもあります(クリプトンの伊藤社長の寄稿もあったり、いくつかの大学図書館に所蔵されてたり…。とらのあなで通販してますよ!)

知り合いも関わっているし、うちの大学の教授もいるので、かなり熱心なニコニコ学会ウォッチャーだと思います。我ながら。

そんなニコニコ学会のことが綴られた『進化するアカデミア』(seroriさんの表紙絵がまたいいんだ、これ)のKindle版が発売されたので、Amazonに掲載したレビューをちょっと修正しつつ書こうかなと思います。


扱うのは、ニコニコ学会βと応用哲学会。
テーマは、研究、面白さ、思想、やってみせること。




・ニコニコ学会βができるまで


一言で本書を表現すれば、「ニコニコ学会β」ができるまで。

ドキュメンタリー的にニコニコ学会βという名称や、コンセプト、ニコニコ学会βの特徴的な発表である「研究100連発」や「研究してみたマッドネス」が生まれるまでについて語っている所がハイライトかな、と思います。
想像以上に、〈思想〉の詰まっている「学会」なのだと感じました。ニコニコ学会βは、コミュニティ論的にもなんだかちょっと面白いというのが持論なのですが、それを確認させるような内容でした。

(〈思想〉の感じは、「ニコニコ学会βとは」を見るだけでも片鱗は感じられると思います。)

もともとニコニコ学会βをちょっとでも見たことがある人じゃないとピンとこない話かなと思います。

ニコニコ生放送で、タイムシフトがまだ残っていて見れるはずなので、未見の人はまずはそちらへ。あるいはニコニコ学会βを研究してみた (#NNG)という本に当たるのもいいかもしれません。他に似た雰囲気を掴めるものとしては、情報処理2012年05月号別刷「《特集》CGMの現在と未来: 初音ミク,ニコニコ動画,ピアプロの切り拓いた世界」とかでしょうか。



個人的に面白いなと思ったのは、「研究してみた」タグを奨励すること、「研究」の意味を書き換えることでした。
初音ミク、Illustrator、pixiv諸々の技術やインターフェイス、プラットフォームが「表現する」ことの意味を書き換えたように、「研究」の意味も、情報技術など諸々の環境変化にともなって更新されて然るべきなのかもしれません。

しかしながら、どれほど「敷居が下がっている」かは疑問符を付けるべきかもしれません。例えば、「研究してみた」タグが付いた動画は現在13件(2013年6月5日)のみです。

「タグが付いているからいいというものではない。付いていないものも我々は研究と見なすのだ」と言うのならそれもいいでしょうが、それは「手前」の中で勝手に「研究」の意味が更新されているだけです。学会βとして社会と技術、社会と研究との両輪を重視していくのだと謳っている以上、これからそこをどう埋め合わせていくかは注目していきたいところです。

「研究100連発」にしろ、ファラデーのロウソクの科学 (角川文庫)みたいに、上から下ろしてくる方向性がメインだった(少なくともそっちの存在感が大きかった)からというのもあるのでしょうが。ニコニコ超会議では、ポスターセッションなどの試みもありましたし、野生の研究者という呼称を生み出して、潜在的「研究」をすくい出す試みもあるにはあります。個人的にはこっちももっともっと力を入れてほしいなと思います。


付記:

タグと言えば、岡田斗司夫と東浩紀が対談した時(2013年)、「語ってみた」というタグは面白いかもしれないという話をしていたのを思い出しました。

現在は一人だけ登録してありますね。ニコ生じゃなくて語ったことがアーカイブされることが重要なんですかね。顔出しは基本)
それと、ある程度ですが、美術手帖の初音ミク特集と出てる人かぶってますね。ある程度。



・他の学会の話――応用哲学会


世の中には、「応用哲学会」というのが存在します。
立ち上げには戸田山和久さんや、出口康夫さん、美濃正さんなどが関わっている、かなり若い学会です。
この立ち上げや学会の「位置」については、話せば実は、長い文脈がその背景にあるのですが割愛するとして……。

悪しき意味で専門化(=タコツボ化)し、そして相互のコミュニケーションすらままならず、更に「自分で考えることすら忘れてしまった」哲学。
もっとしなやかで、「自分の頭で考える」(eingedenken…だったかな)哲学を披露し、議論する場、もっと開かれて、活気ある哲学の場<も>あっていいんじゃないか。
……かなり強引な要約ですが、そういう立場に立っている学会だと思います。


一つに議論の闊達さに関して既存の学会に息苦しさを感じていること。
一つに若手の研究者の表現・発表の場を確保すること。
一つに分野横断的な知的なネットワーク、忌憚ない議論の場を準備すること。


この辺りが目的なのではないかな、と思っています。
ニコニコ学会βは、「期限付き」の5年で解消してしまう学会であることと、なぜニコニコ学会βはそうすることを選んだのかということを思い出せば、このような目的は、頷けるものであるなぁと思ったりします。


応用哲学会の最初の会では、茂木健一郎が真面目な発表をしたりしてます(これは以下に示される『これが応用哲学だ』に収録されている)。
エンジニアや都市工学系の人も参加していれば、認知心理学者や社会学者、企業出身の研究者も参加しているそうです。



自分の教わっている先生も関わっている学会で、しかも、ちょっとした知り合いが『これが応用哲学だ』の出版社にいるので、ばっちりこの本も読んでます。
個人的におすすめなのが、Kindle版も安いことですし、『これが応用哲学だ』です。

この本に現れている問題でいくつか興味深いことがあります。
・なぜ哲学でなければいけないか
・結局哲学は何の役に立つのか
・哲学は何を社会に示すことができるか
この辺の疑問に、どの文章も向き合っているからです。ちなみに3.11後なので、その意味でも興味深い。ニコ生思想地図で、國分功一郎と東浩紀が、哲学について言っていたことと『これが応用哲学だ』で示されているいくつかの回答は、結構似ているんですよね。

つまり――現に哲学をやってみせることによって示していくしかない、ということ。

この点は共通していました。もちろん、方法はそれだけじゃないんでしょうが。

震災後哲学に何ができるか。『これが応用哲学だ』の座談会には、出口康夫、戸田山和久はもちろん、鷲田清一から、野家啓一も参加していて、結構アツいんです。岩波書店が出している『思想』という学術誌がありますが、関東大震災後の『思想』を掘り返して、文章に目を通している話などは、傾聴に値すると思います。
物理学者の長岡半太郎や、寺田寅彦(「天災は忘れた頃にやってくる」)、京都学派の人々の文章もあって、結構言っていることは、2011年と似ている印象がありました。もちろん、あの時と違って、原発のことがあるので色々場合は違いますが、歴史を参照することは、未来を考える上で参考になると思います。
(ちなみに、この座談会では、『一般意志2.0』も話題になっていて、結構的確な批評がなされています。)



応用哲学会も、文脈を踏まえると(今回はその説明をしていないわけですが)、かなり「思想」と「理想」の詰まった「学会」です。
ニコニコ学会βもそう。
しかし、両者には色々違いがあります。決定的な違いも多くある(例えば、学会費がニコニコ学会βにはありませんね)。とはいえ、かなり似ているところもある。

「何か面白いことがしたいということ」
「分野を超えて、学際的な議論がしたいということ」
「他分野に、知的な野次馬根性を持っていること」
「官民学、そんな違いなんて本質的なものじゃないということ」
「既存の学会もいい。でも、その他にオルタナティブな可能性を示す学会もあっていいんじゃないかということ」
「自分たちのやっていることが本当に面白いし、それが社会に還元できると信じていること」
「人の面白がっていることに触れるのは、自分の面白さでもあること」

例えばこのような点でしょうか。
応用哲学会は、特に『応用哲学を学ぶ人のために』を読めばわかると思いますが、「誰にどのように読んでもらいたいのかわからない」所がある。
開こうとしすぎて、求心力がないというか、単なる雑多なものの並列になっていないか?という疑問はあってしかるべきだと思います。個々の論考は面白かったりするのですが、統一的な視点を欠くのです。
これからの応用哲学会がどうなっていくのか、注目したいところです。教授自身も、その問題点をどう克服するかについて悩んでいらっしゃったので(とはいえ、変化を恐れない人なので、きっと変わっていけるでしょうが)。

もちろん、その雑多さは、ニコニコ学会βに例えるなら、何か生まれてきそうな「野生感」の反映でもあるし、ここの分野が交わっていくための準備として、「私の分野は、こう『やってみせる』よ。君はどうだ?」という問いかけであると解釈することもできるかもしれません。
好意的すぎるでしょうか。
けどやっぱ、面白がって何かやっている人は輝いているし、実際彼らはとても楽しそうに見えます。それは重要なことじゃないのかな、研究について。

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