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2013年12月4日水曜日

スティーブン・キング『トウモロコシ畑の子供たち』についての、ま、いわば、エッセイみたいなもの



「トウモロコシ畑」と、映画とか


今回は、スティーブン・キングの『ナイトシフト』という短編集の第二巻を読みました。
「トウモロコシ畑の子供たち」(1977)という短編が気になっていたのです。以下で、この短編を指すとき、「トウモロコシ畑」と言います。
元々このタイトルは、「チルドレン・オブ・ザ・コーン」という映画経由で知っていました。知ったのは、高校のときだったかな。

例えば、このブログで言われているように、狂乱の子供たちが大人たちを虐殺する映画「ザ・チャイルド」(予告編がアップされてました)に触発されたものであるというのは明白です。
※ちなみに、「ザ・チャイルド」についてはNAVERでもまとめられていました→二度と観たくない?ハッピーエンドでもキツいトラウマ級衝撃映画! - NAVER まとめ 


「ザ・チャイルド」。「トウモロコシ畑」も脳内で大体こんなのでした

でも、どうやら、「ザ・チャイルド」は、ヒッチコックの「鳥」のオマージュで、その「ザ・チャイルド」にスティーブン・キングが触発されたようです。

ちなみに、「チルドレン・オブ・ザ・コーン」は、スプラッタとは違う「あーあー……あぁ……」みたいなグロがあるので注意してください。トウモロコシ関連の「あーあー」です。

……いっそ言ってしまうと、目からコーン的な……いや、なんでもありません。。。


少し逸れて『狼の口』のお話


この手の「あーあー」系のグロがいけるなら、興味深い歴史フィクション――いや、むしろ拷問の博覧会である『狼の口 ヴォルフスムント』(久慈光久)をおすすめします。
舞台はスイス。ヴィルヘルム・テルやハプスブルグ家などが出てきます。あらすじは↓です(wikiからコピペ)。
中世、アルプス山脈ドイツイタリアを最短距離で結ぶ交通の要衝であるザンクト・ゴットハルト峠は、アルプス山脈に住まう人々に交易による大きな利益を齎していた。
峠に権益を持つウーリシュヴァイツウンターヴァルデン二準邦の森林同盟三邦は、敵から既得権益と自由を守るため、13世紀末に盟約者同盟en、後のスイス連邦)を結成したが、峠の権益を狙うオーストリア公ハプスブルク家によって三邦は占領され、圧政が敷かれてしまう。これに対抗する盟約者同盟の闘士たちは、独立を取り戻すために地の利を活かして抵抗を続けており、三邦には叛乱の機運が大いに高まっていた。
しかし、14世紀初頭にはハプスブルク家によって峠には堅牢な砦からなる関所が設けられ、三邦の民衆は内部に閉じ込められていた。地元民は何人たりとも通行できず、密行を企てた者を一人残らず抹殺するこの非情な関所を、人々は恐れと恨みをこめて、『狼の口(ヴォルフスムント)』と呼んだ。




人が人にどれだけ残酷なことができるかということについて、たまには考えるのもいいかもしれません。四巻までは、鬱屈とした感じがやばいです。
特定の主人公はいない、民衆や大衆を描いているという点で、スタインベック『怒りの葡萄』を思い出したりはしました。(古い例だと、「出エジプト記」みたいな系列の物語です。『狼の口』の話ですよ。)


B級ホラーとクトゥルフの、にわか与太話




はっきり言って動画内容は下品なのですが、このTRPGリプレイ動画が、この「トウモロコシ畑」を元にしていて(ラストでは、映画や短編について簡単な解説もあります)、それでまた読みたくなったんです。
B級映画感満載で、映画好きの人がTRPGのセッションをしているだけあって、短編より「あー、B級映画っぽい」「B級映画感あるあるー」という感想が得られるかなと。
元はニコニコなので、一応「Children of the Corn トウモロコシ畑の子供たち」のマイリストを貼っておきます。
短編の「トウモロコシ畑」を読んだあと、内容を思い返すと、「はぁ、うまいことTRPGにしたもんだ!」と正直舌を巻きました。
語弊を恐れずに言えば、スティーブン・キングって、クトゥルフ神話の「ハイブロウで、ぞっとしない」ホラーを、「わかりやすくて、ショックのある」ホラーに、彼一流の筆致で「おろした」ところがあると思うので、この手のセッションとの相性は元々いいんでしょうね。

ほとんど詳しくないながらにわか知識で、ごにょごにょ蛇足してみます。
クトゥルフ神話がホラー的な観点から見て面白いのは、それが「神話」であることに尽きるのではないかと個人的には思います。
というのも、「ぞっとしなさ」の起源は見た目の醜悪さ・生理的な嫌悪と共に、「本当は、~」という付け足しを、私たちの世界理解に迫るものだからだと思うんです。
私たちの世界認識を笑い飛ばすように、「それ、間違いだから。本当は、こうなっていて、これが『真実』だ」と語るわけです。(逆説的に、不変・無時間的な「真実」という発想そのものの虚構臭さまで描いているように思うのですが、さてはて)

クトゥルフが単なるホラーではなく、神話、つまり説明の体系、私たちが世界を理解するときの関数であることは、その意味で必然的だったんだろうな、と。
普通のホラーって、「こんなことがあります」「私たちが目を向けない範囲でこんなひどいことが……」「ほら、あなたのすぐそばでも」みたいな諸事実の集合でしかないと思うので。
だから、神話をおろしてきたキングを、クトゥルフ神話に差し戻すのは、理に適っているというか……まぁ、にわかの与太話ですね。
ラブクラフトは結構読みましたが、覚えられないので、いつまで経ってもにわか仕込みですw


「トウモロコシ畑」と、キングについて少し


むっちゃ話がそれましたね。
各短編の紹介は、このサイトでも参考にしてください(丸投げ)

とはいえ、普通にさくさく読めるので、「トウモロコシ畑」について語ることはあんまりないんですよね。一気に小説世界に入っていけたのは、先に挙げたTRPGでB級ホラーとしての世界設定はなんとなく持てていたから、一種の「二次創作小説」として読めたという点もかなり大きいのかもしれません。時系列は逆ですが、個人の楽しみなので別にいいですよねw

加えて、以下に引く、小説冒頭の会話は、「おおっ。キング、さすが」と思うに足るものでした。

「ときどき、あたし、なんであんたなんかと結婚しちゃんたんだろう、とふしぎに思うことがあるのよ」
「短い二つの言葉を牧師に言ったからだろ」(p176)

訳もかなりリーダビリティ高かったです。娯楽小説を読む人にとって一番重要な部分と思われる、読みやすさ・流暢さ……もろもろは、読書のハードルにはなりませんでした。
とはいえ、「トウモロコシ畑」について少しだけ言えば、キリスト教もじりなのに、「予言者」じゃなくて「預言者」でしょ、普通……という文句くらいは付けたいところ。
あと、当然のことながら、ホラーにつきものの、ヒステリー起こす人もしばしばでてきます。


なお、文庫解説として、新井素子のエッセイ「スティーブン・キングについての、ま、いわば、エッセイみたいなもの」が収録されています。


蛇足ですが、スティーブン・キングの『書くことについて』(別タイトルとしては『小説作法』)で、いいフレーズがあったので引用します。
(ちなみに、自伝部分が最高に面白かった)



2013年11月4日月曜日

【同人誌の感想をもらうのは】 同人誌invertの感想 【売れるより難しい問題】

invert vol.1の感想を言おうの回。
invertという評論同人誌については、ここを見ればわかるはず。

まずはかみにゃんのから……と行きたいけど、経緯もメモがてら。


invertという評論同人誌を作っているfrom H(というグループ)のアカウント?の、このツイートを見て、思わず以下ようなツイートをしたので、「先ず隗より始めよ」と、感想を言うことにします。
なんか全体的に先輩ヅラっぽくて超絶消したくてたまらない文章になりましたが、まさに今立っている身としては、先輩どころか、invertを書いている人たちと肩を並べて勉強している立場なので、自己(事故?)対話に近いのだと思いますがががが……


https://twitter.com/mircea_morning/status/396610833209229312
https://twitter.com/mircea_morning/status/396611724553375745
https://twitter.com/mircea_morning/status/397016664815849472


なにかを「やってみる」ことについて



言説が誰に届くのか、誰に向けての言説か問題についての「正しい」回答は、恐らく『ミニコミ2.0』などで(宇野さんと仲が良かった頃の)あずまんが、部数を出すことなど各種のことを言っていて、それに全面的に同意します。

(既に黒歴史になってるけど)都市をテーマに『都市のイメージ、イメージの都市』という評論《も》ある同人誌を作った(データ販売してます。最近安くしたのでぜひ。)ことがあるので、それも込みで言えば、何かを始めるということはそれ自体圧倒的に支持されることだと思っています。

稚拙さとか、粗とか、届くかどうかは、一旦置いてもいいかな、と。若いことになんでも下駄を履かせるべきだとも思わないし、履かないで高圧にもまれて、ある種のアカハラ(=教養主義的な意味に限って)を受けて、定期的に打ちのめされるくらいがちょうどいいのかもしれない。

でも、やはりなにかを「やってみる」という経験はとても大事で、ものを作った経験のある人なら、そのことに同意してくれると思います。
《言葉》に関して読むけど何も言わないことは、《絵》において見るけど何も描かないことに似ているのだと思います。



小説を書くことができる能力はあって何も書かないことと、小説を書いてみることは天と地ほど違う。
頭の中にイメージを持っていてきっと絵にもなるだろうことと、絵を描き上げることは月とスッポン以上に違う。
存在しなかったものを存在させるということは、その制作物・製作物の、巧拙やプレゼンス、効果の大小に関わらず、決定的に大きい。

J.デューイが繰り返し述べるように、教育や学びでは、経験が決定的に重要だし、経験は単独で存在しないので、意義深い経験であればあるほど、その後の経験(の仕方・あり方)を決して同じものにはさせない。

新著が出た千葉雅也さんが、『動きすぎてはいけない』の出版前に、「いつまでも書き換えたくなる、手を入れ続けてしまう、どこかで妥協しないと」とツイートしていたことがありました。ちなみに、退官寸前のうちの大学の教授も似たことを言ってました。研究者・アカデミシャンですらそうなのだから、打ち出した自分言説が、完璧でないことを恐れて何も言わないでいる必要はないのだと思います。
(自分自身、数週間ペースで自分の文章を黒歴史に感じてしまうけど、過去の言説はなかったことにできなくて、恥ずかしいやら辛いやら……ですが、そのおかげで、それなりのペースで走ることができているのだと思います)


元も子もない言い方をすれば、(作った経験からして)めっちゃ製作過程で本を読んだり勉強したり、議論するので、「焦り」が出るんですよね。笑
あと、作り上げてから、自分の書いたことをもっと簡単に言えるなって思ったり、ピントがズレて見えたり。。。
その後悔自体も、学んでいく原動力になる。とても意味があることだと思います。


だから、目標の方向性としては、これくらいが丁度いいのかもしれないとは思います。
事故のように知りもしない誰かにはできるだけ沢山届けること。
そして、知っている人には共感以上のものを感じさせること。
(全然論文書かない大学人とかだと、自分の著書は生徒しか読まない人とか結構いるはずなので、この目標って部数を拡大すれば、研究者にもある程度そのまま妥当するんじゃないかな、とも思ったりラジバンダリ。)

それに、若い人が何か真剣に考えたり、熱いことを言ってるってこと自体、それをとりあえず表現してみたいんだ!!ってこと自体、社会にとって財産だと思うのですが、いかがでしょう。
だって、テーマが「若者と社会」ですよ? 書き手は20歳前後ですよ?
40歳の自分を想像すれば、直ちに満足そうに頷く気がします。

でも、部室感、馴れ合い感とかは(自覚がなくても外からはそう見えることは多くあるだろうし)、助走から疾走に変わるまでには徐々に脱していきたいですよね(自己願望)。

少なくとも、背中を押す大人でありたい、あってほしいと思うけれど。
(未来の私は、どうなってるんでしょうかね。)

だから、最初に「これが『正しい』回答」だと示したタイプの確かさは――言い換えると、言説の「重み」と「拡散性」、スタイルの洗練は――現に全国に名を知られる文芸なり、批評なり、学術誌なりで戦っている現場の「おっさん」「おばさん」(若者との対比で?)に任せればいい。
(だからといって「だって同人誌だし?」「だってまだ若いし?」っていう構え・態度に居直ることは許されないけど、自分は今、そういう話をしているのではないし。)
現に、文フリとかの頒布が中心なわけだし、規範的・意気込み的にそうだというのと、現実・能力は違うわけだから、当然の話なんですけどね。



褒めたようで、自己弁護したようで、励ましたようで、何も語っていないので、さくっと内容も触れます。



内容への感想


・ふわっと全体のこと

タイトルのすぐ下とかに、書き手の名前と、Twitterアカウント名があるのいいなと思いました。

文字幅狭い(もしかしたらフォントの問題?)のと、改行が少ないのは個人的に見にくいなーと思いました。全然許容範囲だけど、少し古い岩波文庫みたいな。

表紙かっちょいい。



既にいっぱい書いちゃったので、以下は特にいくつかピックアップして。


・巻頭言

問題にしたいことについての状況整理を、短雋な言葉でやってしまうこと自体は、新書や力のあるブロガーレベルであるので、ここに書かなくても、もっとコンセプトや、思想、思想にもならないとにかく熱い感じのアレとか語れば、いいのになと思いました。
つまり、終盤のことです。終盤で言ってることを、もっとたくさん/ちゃんと語ればいいのに(もったいないな)、と。


・「死にゆく世界に生きるということ」神山六人

清涼院流水とAKBから、見通しを得るという形で現実把握がなされて、それを踏まえて自己論を語っている(という三部構成)。
とても読みやすくてまとまっている文章で、超頭が下がります。

社会を語る時、コンテンツを通じて、それをするというのは結構厄介だな、と。
宇野さん型の批評は、個人的には苦手です。特に宇野さんは、道具として割り切ることと、コンテンツを楽しむための補助線とを、意図的に曖昧にしてる。(ネタとして語ることと、ベタに語ることを混ぜてる)
清涼院流水というフィルターを通して、社会を見れば、こういう風なもの《として》映り、それによってこういうことにスポットがあたるから、これを考えないと……さらにこのフィルターを重ねて……
みたいに、コンテンツを《利用》するという立場の方が、個人的には好みです。

社会を語る時くらい、社会にだけ視線向けてほしいかな、って。(コンテンツ批評はコンテンツ批評で、好きです。目的に応じて使い分ける方がよりいいと私は思うだけで。)

完全に好みの問題ですね。笑 
神山くんはどっちなんでしょうか。私、気になります。


多元的自己論の部分は、二年前くらいに見たこの動画が面白かったので、ぜひみてください。
多元化する若者の自己とアイデンティティ資本
後期近代におけるアイデンティティ資本

特に前者は、多元的自己論を複数的確にまとめてあるので便利。


・「社会のキリトリ線」伊丹空互

『太陽の季節』(1957・石原慎太郎)と『イン・ザ・ミソスープ』(1997・村上龍)を、20歳前後の人間が読んで書いているということだけで、もうなんか読む価値があった。
自分はというと……ぶっちゃけ読んだことない。笑


・「WHAT  "□□□" BE INVERTED?」堀真流知

大学に入学してすぐの女の子が、ゼミで考えたこと・考えなければいけないことを、最初に父親にメールすることで一度ぶつけてみて、次の週はまた別の考えたことを投げてみて……

という形式で続く。読みやすいし、発想が面白い。



なにかを「続けていく」ことについて


……はい。
あからさまに途中で書き疲れた感あふれていますが、ごめんなさい。笑
もう十分、言ったことの義務は果たしたかな、と思いますので、ここらで勘弁してください。

40歳くらいの、友人であり先生であり、導きの糸でもある某人に、「自分たちが考えたこと、話したことを、残しておくってことは、大事だなって今になって思うよ」と言われました。
「拙くても、きっと今とは違う考えだろうし、たまには面白いこと言ってたはずだし、そういうものを確認できない僕たちは、今はただ単に懐かしむことしかできない。過去の自分達のことが、今に対する直接の刺激にはならない」
という趣旨の言葉だったはずです(うろ覚え)。

同人誌は、(ガンダム的な使い方に近い仕方で)「黒歴史」なのかもしれません。
一番最後の読者は、未来の自分たちだったりするのかも。遠い手紙になると思えば、少し励みになる……かも?w

最初の言葉を翻せば、「創業は易く、守成は難し」とも言いますし、今度は頑張ってとりあえず続けていくことを頑張ってほしいなと思います(invertにはナンバリングタイトルもあるし)。
(そういえば、チャーリーもどこかでそんなことを言っていましたし、大槻さんと今日そういう話をしました。)

続けていく中で、不断に向上していくこと、広く届けようとすることはもちろんのこと。



はい、終わり。
こんなブログ書いていいのかわからないけど、まぁいいか。
すごい適当に、ねむいまま、推敲もせずに書いたので、お前が言うな感、満載ですが、大目に見てくだしあヽ(・ω・)/

2013年11月1日金曜日

攻殻S.A.C.「悟りのダウンロード」について、考えてみた


「座禅って、宗教的意味よりもむしろ人間の業を雑念から解放する意味合いが強いんでしょ?」
「僕たちで言うと溜まったキャッシュ上のデータを消去するってことかもしれないね。それと並列化を足したような意味かな?」
「じゃあ、座禅を組んでる人と繋がったら悟りがダウンロードできちゃうかも」

出典: 士郎正宗原作/協力・神山健治監督「攻殻機動隊 S.A.C 2nd GIG 動機ある者たち」



※ちゃんと書き直したり、まとめようと思っていましたが、飽きちゃったので思考メモみたいな状態のまま公開しますね※


悟りのダウンロードの話になったので、ちょっと考えてみます。
書きつつ考えるので、まとまってないかも。

《悟り》とはなんでしょうか。
あるいは、悟りを《ダウンロードする》というのはどういうことでしょうか。

ダウンロードされる「悟り」が知識なのだとすれば、「悟りとは◯◯の状態である」ということでしょうか。




「ダウンロード」する、という時に、悟りをアプリケーションのように考えているのでしょう。
そして、「悟り」は同時に一種の状態だと考えている。

この時、ダウンロードしただけではダメなのでしょう。「実行」がなければなんにもなりません。
アプリケーションをインストールしなければならない。
loading(弾丸を詰める)だけではだめで、shooting(打ち込む)が必要。

ソクラテスのパラドックスというものがあります。
プラトンの『プロタゴラス』に出てくるのですが、「最善のことを知っているのに、他のことをすることはできない」というものです。
このパラドックスは、大抵「意志の問題」あるいは、ソクラテスの倫理的な宣言として、受け取ることで解消される(と私は理解しています)。
例えば、この論文

「知っているのに、その知に反して他のことをする」という時に、それを「知っている」と呼ばない!という感じで。
(実際のところ、論文にあるようにかなり論争の的なのでしょうが、ほんとのところどうでもいいです)

思うに、悟りは「状態」というよりも「経験」なのではないでしょうか。
上のソクラテスのパラドックスも、ある種の経験のことをそう言っているのではないかと考えることができます。



タチコマは御存知の通り、案外執着を持っています。
うろ覚えで話せば、「もっと戦争がしたい」とのたまっているシーンもあったような。
(これを思い出すとき、そもそも、悟りがキャッシュを消す行為と一致するとは思えないのですが)

タチコマはアタラクシア(意志の弱さ)を克服できるのでしょうか。
悟りは知識というより「経験」なので、そもそも「状態」とは言いがたいのではないかと思います。



アプリケーション・サトリをダウンロードすればPCの状態が悟りになる、というのは、ある種の薬を飲めば幸福になる、というのと同じことなのではないかと思います。
それを悟り・幸福と呼びたいなら、それはそれでいいのですが。


「あの人みたいにドイツ語ペラペラになりたい」
というとき、私は「あの人」の「(語学が)ペラペラ」という状態だけを欲していますが、言語の違いはかなりの程度、思考パターンにも違いを生むので、ある言語が自家薬籠中の物になった人は、単にその状態を得たというよりも、ある種の経験を獲得したと言った方がよいのではないでしょうか。

ここで仮に私が、「ペラペラ」を得たとしても、「あの人」が「ペラペラ」である時に必要だと思っているその他の経験は
(その他の経験→例えば、ドイツの友人との交流、その友人と与太話をしたこと、ドイツの歴史に関する興味、専門分野に関する知識などなど)
なにより、経験は、ネットワーク状に組織されているので、それ単体で抽出されて得ないのではないかと思います。

まぁ、実際は電脳化の経験が私にはないので、わかんないんですけど。



ある種の(根本的な?)経験は、それ以降の自分の経験のあり方を変える。それだけでなく、それ以前の自分の経験を再組織化する。
ある経験は、その後の経験を左右するだけでなく、以前の経験に対する自己理解を書き換えてしまう。


つまり、私が思うところでは、タチコマたちが言っている「悟り」は実際は状態ではなく、経験なので、悟りのダウンロードは擬似問題かなと思います。


……みたいな。
思いつくまま、推敲しないままのメモの状態ですが、飽きたのでこのへんで。




2013年10月2日水曜日

鈴木博之『都市のかなしみ』――ゲニウス・ロキ、街歩き、そして復元と復原



元々、『東京の地霊』という本で知っていた著者でした。今回、この『都市のかなしみ』を頂戴したので、なにごとか書いてみようと思います。
鈴木博之さんについては、Wikipediaにページがありますので、そちらを見てください。

地霊―ゲニウス・ロキについて


まず、『東京の地霊』について。
地霊――ゲニウス・ロキ――という言葉は、分析概念として提出されているわけですが、それほど有意味でも有用でもないと思います。
土地を特徴付ける霊、とでも言うべき内容が、元々の意味です。
ちなみに地縛霊とは違います。地縛霊は、19世紀辺りに流行した、降霊術や心霊科学辺りが起源で、しかも怨霊に近い含意があるはずです。つまり、地縛霊は近代産。

そのゲニウス・ロキ、地霊を、著者は土地の固有性が希薄化していく(『東京から考える』的言えば、「郊外化」していく。もっと有名なバズワードなら「ファスト風土化」)現状で、土地の個性みたいなのを引き出す概念として考えているわけです。

けど、実質的には、《エピソードで追う土地の歴史》以上のものではありません。
それが悪いというのではないのですが、大上段に振りかぶった割に、「で?」という内容なので。とはいえ、エッセイとしては比類のない出来で、サントリー学芸賞かなにかを受賞するのも頷けます。
こういう風に、丁寧に土地の歴史を追いかけるということをするだけ、土地に対する愛着がかくも生まれてくるものか、と思います。

しかし、この種の試みが目指しているものは、他の手法でもっと簡単に達成されているのではないでしょうか。
目指しているのは、自分の生きている、生活している、訪れる所の「街」「都市」を、ビビッドなものとして感受し、交わり、関わっていく……というような。
念頭に置いているのはいくつかの漫画です。

例えばこの本。

衿沢世衣子『ちづかマップ』――ちづかと一緒に街を読もう!(NETOKARU)


それから、ancouさんという漫画家さんの一連の漫画です。「街歩きもの」とでも言うべき漫画は、結構沢山あって、しかも面白いものが多い。


小難しく考えたい人は、東浩紀・北田暁大『東京から考える』中沢新一『アースダイバー』でも手にとればいいのであって、普通に、自分の街を楽しんでみたい人は、こういう漫画にこそ出会えば、それで十分なのではないかな、と思います。

『東京の地霊』は帯に短し襷に長し。いいエッセイなんだけど、最近の漫画なめんなよ。
読ませる文章だからって、漫画より優れているというわけではないのだから。




復元と復原――東洋と西洋は、向き合う問題もロジックも違うらしい、というお話


そもそも復元と復原ってなんぞ…?という方は、こちらか、こちらをご覧ください。

ある先生に復原と復元について以下のような質問をしました(問題のないように大幅に改変)。

建築史が専門の鈴木博之さんの本の中で建築史の観点からの復原・復元の議論は紹介されるものの、観光や文化遺産の観点が抜け落ちていて片手落ちの感が否めませんでした。
ヨーロッパでは復原・復元の事例が(特に主要観光都市や有名文化遺産で)少ない・認めないタイプの立場が一般的かと思います。鈴木さんはこちらに賛意を示していらっしゃいました。

平等院鳳凰堂の庭改修・改変についての批判しているように、鈴木博之さんは文化財の復元・復原に否定的でした。場合によるとそれは「過去への敬意」どころか、曖昧な想像による「過去の踏みにじり」になる、と。 
リンクを貼った知恵袋に引き寄せて言えば、「当初」をどこに認めるか、どの「当初」を価値あるものとするのか(どの「当初」が「真正性」を持つのか)、未来(世代)のことを勘案すれば、そのような改変はそもそも許されるのか……などのような疑問に集約されるのではないかと思われます。復原・復元によって全ての瞬間を保存し、提示することはできませんので。
ただ、歴史上あった東大寺の改修と、まちづくり的復原・復元とは、共に広義の「復原・復元」に属するものの、筆者の態度は違っているようでした。(前者は文章から伺う限り、それほど否定的だとは思えません。)

平等院鳳凰堂に関しても、最近こんな改修がありました。
これに対して得られた回答はこのようなものです。

例えば、世界遺産は、「時間を今のまま止めることが重視される」ので、復元や復原は重視されない。
そもそも修繕や修復に対する思想が、西洋と東洋で違う。(参考

古い遺跡はヨーロッパにもあるが、アジア圏の遺跡は、そもそも修復が必要なものが多く、ヨーロッパの論理の単純適応では解消しきれない問題が沢山ある。
(アンコールワットの修理・修復は批判できないと、確かに私も思います。)


最近、福島第一原発観光地化計画というものもありますが、物事を維持するには当初から「維持しよう」と努力を続けなければ、なんにも残りませんよね。
一応、曲がりなりにも、95年の震災を体験した身としては、そのことを思わずにはおれないのです。
感情的に「ねーよ!」「廃炉先だろ!」と言うことは簡単です。
けれど、こういう発言を見る度に、残すことと、諸々の必要な作業は、互いに齟齬や妨害を生むことなく並行できることだろうと思わざるを得ないのですが。

それに、勝手に誰でもが入れる現状よりは、管理できる体制を整える意味でも、「観光地化」は意味ある営みだと思います。

動き出している福島、双葉の観光 小松 理虔


その話は置いときましょう。
こういう出来事について、「復原や復元」をどう考えるかということは重要かもしれません。
広島平和記念資料館で、蝋人形が撤去されるという件は、広い意味で言えば「復原や復元」が持つ恣意性を排除しようとするものでした。
現物による展示に換え、「時間を今のまま止めて」その展示物をして語らせるような仕方に転換しようとする。

復原や復元によって、イメージが物質化されてしまうことで、事実化・外在化され、あたかも「実体」のように、さも当然のように、そのイメージが受け取られるのではないでしょうか。
復原や復元――もう少し広いスキームで、修復や修繕も含めて――とはどういう営みなのか、考える必要があるのかもしれません。



『都市のかなしみ』という本だったので、ダークツーリズム的な本だろうという意図で、この本をプレゼントして頂いたのだと思うのですが、全然関係ないですね!笑

とはいえ、頑張って話をご希望されているであろう方向に寄せてみました。





2013年9月24日火曜日

根本彰『理想の図書館とは何か:知の公共性をめぐって』――観光、まちづくり、ショッピングモール



院試も終わって、何か知識欲と興味のままに調べ物がしたいということで図書館(学)について色々調べていました。
まず蔵書を調べる中で気付いたのは、図書の分類において、図書館学・図書館・読書・本についての本は、情報に関する本と共に分類の最初の方にあること。
(これは図書館によって違うのかな?)
分類に思想が現れてるのかな、とか思ったり。この辺は気になった。

それはさておき。
今回の本は、根本彰『理想の図書館とは何か:知の公共性をめぐって』です。
これについての覚書は後に回すとして、図書館学について気付いたことを最初に挙げてしまいます。

・観光学とくらべて、随分丁寧に研究が行われている。司書養成などの都合からか、比べるとかなり体系的に見える。
・お題目のように学際性が訴えられる観光学とくらべて、(同じく学際性の要求される)図書館学は、題目抜きに、ちゃんと様々な分野からのアプローチが行われている印象。(教科書シリーズの巻数の多さ!)
・図書館学という学問の特性上、「現に図書館は存在するし、今後も存在するだろう」+「一般的に言って、図書館は必要とされているし、今後も必要とされる存在であり続けるだろう」みたいな共通認識がスタートにあること。(一切の反省がないというわけではい。「図書館は不要だ」という認識に立った図書館学は、そもそも学問である必要もないだろうし)

追記。
図書館不要を前提に図書館学は難しい、について。
不要を前提にすることは難しいでしょうが(この種のものは文化や歴史によってかなり定義が異なるので、何らかの形で生き残るだろうし)、宗教学・宗教論に宗教批判が存在するように、図書館批判は存在するし、存在し得ると思います。

大抵、宗教批判は、理念・理想としての宗教と、制度化された宗教・現実の宗教との相克において捉え、前者に立ち返りながら、「もっと熱くなれよ!」と語るタイプのものです。
同種の議論は、図書館学でも多く存在することでしょう。
宗教批判については、こちら参照。

この点面白いのは、図書館に関する書物は、図書館が意識的に買う傾向にあるそうです。一般に受容がなくても、図書館に関する本が、結構出版点数があるのはこういう理由があるのだとか(最終章参照)。


とりあえず、ぱっと気付いたことは以上。




『理想の図書館とは何か:知の公共性をめぐって』

目次
はしがき
第一部 図書館を考えるための枠組み
 第一章 日本の情報管理
  コラム1 図書館の新しいイメージ
 第二章 図書館、知の大海に乗り出すためのツール
  コラム2 ヤマニ書房の思い出
 第三章 交流の場、図書館――日本での可能性――
  コラム3 出版文化と図書館
 第四章 「場所としての図書館」をめぐる議論
  コラム4 青森の図書館を訪れて
 第五章 図書館における情報通信技術の活用
  コラム5 ソウルから
第二部 公立図書館論の展開
 第六章 公立図書館について考える――ハコか、働きか――
  コラム6 豊田市図書館と名護市率図書館
 第七章 貸出サービス論批判――1970年代以降の公立図書館をどう評価するか――
  コラム7 いわきの図書館に注文する
 第八章 地域で展開する公立図書館サービス――続・貸出サービス論批判――
  コラム8 いわきの図書館はどうなったか
 第九章 公共図書館学とポスト福祉国家型サービス論
 補章 「図書館奉仕」vs.「サービス経済」

本当は節タイトルまで書けば、もっと魅力的に見えるのですがめんどくさいので割愛。
有川浩『図書館戦争』や、エジプトの新アレクサンドリア図書館藤原正彦の『国家の品格』や齋藤孝の読書術系のアレ(三色ボールペン声に出して読みたい)、公共貸与権、大英博物館、六本木ヒルズの会員制図書館など、キャッチーだったり、流行した概念にもちゃんと触れていることが手に取った最大の理由でした。(出版自体は2011年の夏ですが、論考の発表年度は2000年初めから2010年くらいまでです)
お高く止まらずに、こういうことにもちゃんと目配せしつつ、持論を展開するのは学識者として当然のことだと思うので。

それに、筆者は、キャッチーな所から説き起こして、本論に繋げていくのが結構うまい。



追記。
公共貸与権は日本では例のごとく曲解されているようです。詳しくは本文の他、この辺りをご覧ください(誤解も含めて、主要な扱いをピックアップ)

動向レビュー:英国における公貸権制度の最新動向―「デジタル経済法2010」との関連で / カオリ・リチャーズ
動向レビュー:公共貸与権をめぐる国際動向 / 南亮一
英政府「図書館での電子書籍貸し出しは公共貸与権の対象」と作家団体に公式伝達
著作権をめぐる最近の動向
公共貸与権にかんするメモ~新武雄市図書館を例に~

筆者曰く。図書館も出版社も著者も、出版文化を共に形成していく仲間であり担い手。利益を奪いあいう関係ではない。……という認識ありきなのだそうで。
保証も政府が、そして図書館業務に支障のない限りでの話だそうです。
日本は日本だ!!と言うのは簡単ですが、知った上で言うのと、知ったかして言うのと、知らないで言うのは全部違いますよね。


図書館の理念の変化


図書館の理念は、設立者の理想、時代の理想に左右されている。日本の図書館理念の変化について、大体三つの転換点から筆者は捉えています。時系列に見ていきます。


1、自習の場としての図書館
・古い資料の保存
・第二の勉強部屋や書斎として
・知的で落ち着ける雰囲気を求めている
・科挙型の系統的カリキュラム(いわゆる「詰め込み式」)の影響
・立身出世主義など儒学の影響もあるのか

2、資料提供型の図書館
・資料の貸出と閲覧を中心とする
・自立した市民の「自己教育」の場(探索型カリキュラムとの呼応関係)
・ジャーナリストや著述家の図書館擁護論は、現に彼らが図書館に通って恩恵を被っている
・レファレンスと蔵書のお陰で、多様な観点から著述できる
(本文での例は、『思想としての日本近代建築』八束はじめ。個人的に覚えている例で言えば、『パラダイムとは何か  クーンの科学史革命』野家啓一が、謝辞で司書さんのレファレンスに言及していた。)
・1970年代以降のモデル。今新しくできる図書館は基本的にこのモデル。
・住民のニーズに即した蔵書(貸出数によって、図書館の指標とする)
・貸出サービス論を最初に打ち出した前川恒雄の目論見とは違って、単に流行の小説を集めるだけになりつつあるのではないかという危惧

3、地域文化志向の図書館
・これは、資料提供型図書館ないし貸出サービス論からのオルタナティブな選択肢として筆者が提出しているもの
・郷土資料の充実。地域の記事の切り抜きなどを行なっている所は元々結構ある。
・展示や出版物、イベントなどを通じた図書館からの情報発信
・地域文化の機関となる

といった感じです。
1だからといって、閲覧してないわけでもないですし、2だからといってイベントを一切しないわけでもなく、3だからといって流行の本を意識的に排除するわけでもない……ということは、一応付言します。

図書館と「まちづくり」、あるいは「ショッピングモール化」


3つめについては、「まちづくり」の文脈で語られることと同様ですね。「まちづくり」を考える時には、「~とまちづくり」みたいに対でイメージするといいかもしれません。
「観光とまちづくり」「図書館とまちづくり」……
結局、観光にしろ、図書館にしろ、街としてのプライド、地域のアイデンティティをどう作り出していくか、作り出していきたいかという問題に関わっているのだと思います。
(そもそも、観光地としての成功や、人口増加、雇用創出などの達成が実現する地域の方が少ないのですから、焦点が「シビックプライド」に移行するのは自然だと思います。)
チャーリーこと、鈴木謙介さんの新刊(『ウェブ社会のゆくえ』)にもシビックプライドの議論が紙面を割かれていましたが、この辺りの潮流を受けてのことなのだろうなと思います。


それから、2については本文で結構面白い紹介があります。

明らかに図書館サービスの手法に変化が見られる。「市民の図書館」は資料を借りて、自宅で読むことを強調したが、その手法は継承しながらも、施設を大型化し利用できる資料の幅を広げたり居心地をよくしたりすることで快適な公共施設であることを強調している。滞在型図書館あるいは居場所としての図書館などと呼ばれることもあるが、ここでは仮にアメニティ型図書館と呼んでおく。(根本彰『理想の図書館とは何か:知の公共性をめぐって』p138-139)

このすぐ後に、こんな話もあります。

「現在、良い図書館の要素としては、駅前や繁華街近くなどのアクセスしやすい場所、郊外の場合は広い駐車スペース、滞在して資料を利用するのに快適な施設、大きな開架スペースと豊富な新刊書供給、ビデオやCDの視聴やインターネット端末のりよう、貸出冊数の制限をつけずインターネットからも予約できる、というように、施設面を中心とした利用しやすさがきわめて重視されるようになっている。」(p139)

この辺りは、ショッピングモール(化)を特集している『思想地図β1』や、その成果を受けて書かれた速水健朗さんの『都市と消費とディズニーの夢  ショッピングモーライゼーションの時代』などの議論と明確に呼応するように思えます。
筆者である根本は、これを必ずしも好ましい傾向とみていません。
「知の公共性」とタイトルに入っていることからもわかることかと思いますが、消費としての読書を前提にした図書館、商業主義的な図書館は、害のあるものだと見ています。

消費としての読書それ自体は別段、いいも悪いもないのですが、知の公共性という観点から考えれば、望ましいと言えないのはその通りかもしれません。
資料収集に関する資金は不況でばっちり減っているという現状を踏まえれば、特に。




まぁ、覚書を作りたかっただけなので以上で。
読みやすいので、手にとっていいんじゃないかなと思います。
説教臭くもないし、経済的観点を常に考慮しているのは、とてもいいと思う。


図書館ってそもそも、自立した個人が自己教育の場として利用することを前提にしているっていうのが、改めて考えると面白いですよね。
一般的に言って、開かれた場でありながら、結構な「能力」を要求している。……とも受け取れるわけですから。
よく、生涯教育とはいいますが、「生涯教育としての図書館」と書いた所で何か明らかになるわけではありません。とはいえ、現実に様々な収入の人、様々な立場の人、年齢の人が訪れる場であるということは、ある地域の中に存在する図書館を見る時に、気に留めておいてもいいかもしれません。(この多様性は、ショッピングモールに関して言われることに少し似ています。もちろん、ショッピングモールの方が、図書館に比べて、地域をより「離陸」している傾向にあるとは思いますが)
卒論はジョン・デューイで書くのですが、彼が想定している市民もこういう市民だし、『学校と社会』『経験と教育』などでは、教育が地域社会にあるものを利用することが主張されるのですが、まさに図書館なんかはその典型例ですよね。
もう少し本気で考えるのもいいかな、と思いました。


2013年9月12日木曜日

@showitch さんの批評へのコメント――短歌、やっぱり衰退するんじゃないでしょうか。ただし…

短歌は衰退しますか――ポストモダンに防人はいない

今回の話題はこちら↑です。


2012年活動報告に書かれてある通り、実は京大短歌に所属しています。
会報誌?の『京大短歌』19号に、「短歌は衰退しました――短歌構造の素描と三つの短歌小説」という評論を書きました。
(なお、短歌小説論のうち、森田季節『ウタカイ』の一部分はこちらに掲載されています。)


反論というほどのことはありませんし、(今は京大短歌に興味を持った知り合いに貸していて、自分の原稿が参照できないこともあって)自分より自分の評論を読み込んでくれているのではないかと思います。
ありがたいお話です。

「ライトノベルが価値があることを前提としている時点で議論が弱い」というような、別の方の感想をお見かけしたので、そのような勘違いよりは辛辣さの方が心地よいものです。
辛辣どころか、吉田さんは丁寧に過ぎるくらいで。
(どちらかというと、ハイカルチャーとサブカルチャー、「純文学」と「俗文学」のような二項対立に還元したがる人にこそ、そのような偏見を解いて頂きたく書いたというのが本心なのですが。
つまり、ラノベを列挙したのは、「どうせ、こんな文脈知らないでしょ?」という煽りであり、釣りです。
実を言うと、どちらかというとラノベはそれほど沢山よみません。漫画は読みますが)



あの評論の意図は最初と最後とにまとめてあるので、お持ちの方は最初と最後だけでもご確認ください。

さて。その上でいくつかコメントを。

※手元に自分の原稿がないこと、院試の一週間程度前であることなどを踏まえて、「だらだらしたコメント」であること、「疑問に対する的確な答え」にはなっていないことについて、ご寛恕願います。


コミュニティ論としての側面


理論選択については書いている時点から疑問でした。
ポストモダンが進行していることは論じる余地がないと思います(東浩紀「ポストモダン再考」的な意味で)。
ただ、短歌にデータベース消費があるかというと、これは怪しいと思います(東浩紀『動物化するポストモダン』の用語)。

個々のコンテンツや出来事が、諸々の要素に還元された上で集積されていることが前提ですし(そうした営みは、更に「情報技術」によって大幅に勢いづけられた、技術的に高度な集積=データベース)。
それに比べて、短歌は情報技術や時代の変遷を前にして、何か変化を遂げたかというと、良くも悪くも「相変わらず」なのではないでしょうか。


なので、かなり本文での私の話はあずまんの言っていることと違うはずです(うろ覚え)
そのままの応用ではないはず。

※あずまんの例の本については、このへんとか、このへんとか。これが一番いいかというと疑問ですが。


うまくいかないかもしれないのになぜ、あの評論を書いたかということからお話するべきかもしれません。
「クラスタ」という言葉を使っているように、あれはある種のコミュニティ論のつもりでした。
短歌という磁場に集まった人たち、その集まりそのものを、まるっと対象にしたかったのです。

きょうびのコミュニティ論は、管見では以下のような所に話が既に向かっていると思います。
「もう開いている・繋がっていることは自明なところまでいったので、開きつつどう閉じるか、閉じることで個性・固有性を維持するか、開きつつ閉じることでどう変化に対応するか」

それなのに短歌ってなんか変なところがあるなぁ。閉じる所に寄り過ぎなんじゃないの?という疑問。上の話で言えば、スタート地点にすら立っていないように思える。
反論されるならば、これが杞憂であるならば、結構な話なのです。

阿呆陀羅経でも構わないなら簡単に作れるし、読むことも日本人なら簡単。
けど、それだけでは何の楽しみもない。
向こうから手を伸ばしかけている、クラスタ外の人にちゃんと短歌好きが手を伸ばさないといけないんじゃないの。
科学で言えば、科学コミュニケーションとか、アウトリーチ活動とか、啓蒙活動とか……こういうものに当たる営みが決定的に乏しい!と書きはじめる前は、そういうイメージを持っていたかもしれません。

いや、言えば言うほど安っぽいんですけど。
もっと、砕けた言い方を許してもらえるならば、「駄サイクル」(石黒正数)に見えてしまうことがあるんです。
歌壇ってちょっと大きい部室じゃないの?
部室の真ん中で、「芸術の真正性がー」「社会がー」みたいな話をされても、ちょっとなーと思うんです。


理論選択/創作の諸前提という側面


本当は、解釈学とかの理論(こういうイメージ)で話がしたかったのですが、力不足で。なので、とりあえず次善の策として、あずまんの理論を借りたのです。

リンクをご覧になれば、解釈学のアプローチによって、えぐり取られる側面が伝わるかと思います。
いかに当たり前のことを、当たり前に解釈することが困難かということ。
私たちが、何を受け取る時に、恐ろしいほどの前提を「自明視」するまでもなく前提にしていること。
その前提の洗練された集積のことを、「伝統」と言ったり、「文化」と言ったりするのでしょうね。

この前提を、コモン・ノレッジと呼んでいたのだと思います。
暗黙の諸前提=コモン・ノレッジもっと意識的に言葉化・可視化する努力をしてもいいんじゃないか。それをしないことで、作られている部外者への壁に気付いてもいいんじゃないか。

みたいな話だと思います。

心の習慣にしろ、暗黙の前提にしろ、互いの付き合いや作風の変化を織り込み済みにした批評にしろ……あんまりそれが肥大化しすぎると……ちょっと大きい部活の「部室」、タコツボ、内輪……なんと言ってもいいのですが。


いや、うまく言えませんが、それでいいのかな、短歌は。

……と思うのです。
そりゃ伝統あるし、魅力もあるけど。
でも、魅力的な「部室」ってどうなんやって思うじゃないですか、やっぱり。


「情報」について


ページ数まで挙げて頂いて、丁寧に読んでいただいている中、記憶で返すのがほんとに心苦しい。笑
ごめんなさい>< 今、短歌に興味あると言ってる友達に貸してるので、『京大短歌』が手元にないのです。
書いている当時も結構焦って書いていたので、使用語彙に甘さはあるかもしれません。


情報という言葉はまさに仰るとおりです。
「描かれてある文字数」です。解釈学について紹介したエントリでいえば、「ももたろう」についての文字列=「ももたろう」の情報です。

第一稿では、シャノン-ウィーバーの名前と共に、図まであったような気がします。デリダの名前はもっと意識的に出していく予定でした。前者は、出すだけややこしいかと思ってカット。後者は、やや力不足で。ディスコミュニケーションを強調すれば足りるかということで、あの程度にとどめました。


ただ、「それ以前の情報へのコメント」として、連作が機能するかについては結構怪しいと思います。
「短歌にコンテクスト構築能力はない」と断言していたらしいのですが、意識的にやっているなら、レトリックであり、政治的な意図だと思います。
実際には「弱い」と言うべきでしょう。

例えば、馬場めぐみさんの短歌研究新人賞の、選考座談会を読めば、少なくとも審査員のような「短歌クラスタを率いている偉い人」は、コンテクストを作るものとして読んでいないと言えるんじゃないでしょうか。
他には、誰だったか、「風邪をひいて、街を歩いて、イライラしたりして、最後は治る」という一連の体調変化・気分の変化の中にいる青年のシーンを、時系列にスナップショットで撮ったような連作を作っていたのですが、その歌会で「コンテクスト」に気付いていた人は誰もいなかったように思います。

※です↑

つまり、不可能ではないにしろ、結構現実的に無理なんじゃないかとは思います。そういう風に読むという「身体」を、短歌クラスタは持っていない。
すみません、今はこの2つくらいしか、いい例が浮かびません。


本文では『回転ドアは、順番に』をどう扱っていたか思い出せませんが(あれも連作みたいなものでした。詩もありましたが。大まかには章ごとに完結し、全体としてもストーリーになっている感じ。)、あれに収録されてる露骨なセックスの短歌が編集者には理解されていなかったそうですし。

普通の短歌人同士では下手に伝わり合ってきたこともあってか、部外者には絶望的に伝わらないことを自覚してもいいんじゃないかな、と。



んー。用語の混乱は結構あるような気がしてきました。
造語しちゃうくらいがよかったのかもしれませんね。



うろ覚えで書いていて、自分でも答えになっていないような気がしてきたのでここらにしときますw


短歌、やっぱり衰退するんじゃないでしょうか。
ただし、短歌クラスタが「流通」に注意を払うならば、その限りではないでしょうけど。

短歌って、消費のされ方、受け取られ方を含めて、想像以上に「通じてない」「伝わってない」んですよね。
枡野浩一さんとかはわかりやすすぎるくらいわかりやすい歌も多いし、ドラえもん短歌(でしたっけ)も「共通体験」を意識的に使っているわけですし。
そりゃ「文学」が好きな人としては、枡野浩一をくさすのが「かっこいい」とか思ってるのかもしれませんが、そんなのクソッタレだと私は思っています。
ドラえもん短歌、いいじゃないですか。枡野浩一、最高じゃないですか。

気に入らないなら、お前がやれ。
――と、批判を聞く度に思います。



おらああ! 俺がちゃんと布教やってるよ!!
アウトリーチやってるよ、既に私がっ!!!

……というお兄さん、お姉さんが沢山いることを願っています。




以下、9月14日追記。「長めの蛇足」
理論的な問題点を抱えている点、意図は多くの人に汲んでもらったという点を見ても、もはやこれ以上自分からこの評論について語ることはないだろうと思います。
本来私はただの引きこもりだし、最近バイトや院試対策、身内の不幸で全然歌会行けてないんですよね。だから、本当は様々な意味で、別の人の仕事だったのだと思います。


勝手に埋め込んじゃいますが、その点、下に挙げる発言には同意なんですよね。そういう方向を選ぶことには同意できる。
それは、おおまかに認識を共有できているからです。大まかな現状認識は一緒だけど、問題を見出すところが違うというだけで。少なくとも、私の思う「問題」の解決には一切貢献しないし、疑問点はあるけど。(でも、この点も「逆もまた然り」、です。)

周回遅れのポストモダン(プレモダンである日本が周回遅れで先進的になる)という昔ながらの議論の構造を、宇野は焼きなおしているわけですが、それを個々の島宇宙=クラスタで主張しているのかなと思います。この種の議論のバリアントでしょう。

とはいえ、それも「開くことが自明になった上かな」というのが本心でして。

だから、そういう風には思うけど、 ほんとの所。

まさかあ
「馬人が悪い」が「猿人が悪い」にかわってるだけよ
何にも違わないわ 
そうかなあ 
そんなもの
なんにも違わないのよ
なーんにも

同じ生活形式ならば、時には、主張の違いなど些細な問題なのかもしれません。短歌のことが好きなら、なおさら。

2013年9月11日水曜日

スパイ小説として「ももたろう」を読んでみる――解釈学的循環を逃れられないこと




解釈学的循環の話をするかもしれない


※今日も今日とて、すごいざっくりした話をします。
※気分転換に、推敲も事前に考えもせずに書いています。
ももたろうをスパイ小説として読み解く妄想をしてて、その勢いで書いています。


ガダマーの解釈学的循環他、細かい用語は、ググっていただくとして。
理論の細部はさておき、新科学哲学と言われていた思想潮流が訴えていたこと――例えば、観察の理論負荷性やパラダイム――は、それと大きな流れの上では連帯するものでした。
クワイン(全体論)とデイヴィッドソン(特に概念図式の話)の議論なんかもそうですね。
そして、ローティの「エスノセントリズム」も。

まぁ、細かい話は置くとして。

ももたろうをみていきましょう。
ももたろうを通じて、解釈学的循環って具体的にどんなプロセスかを見てみます。

「リテラルに(文字通りに)」読むとか。
「解釈抜きで」受け取るとか。
「主観を廃して」受け取るとか。
……よくこんなことを言ったりしますが、そんなことは無理ですよ的なことを言いたいのだと思って頂ければ。


ももたろうは意外とむずかしい?


「むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました」

「むかし」とはいつだろうか。紀元前5世紀くらいか。この物語を読んでいる読者の時間が、期限後45世紀だったとすると、「むかしむかし」は20世紀辺りのことだと思っても仕方ないかもしれない。
少なくともこの時点ではなんの不都合もない。

では、「あるところ」とは?
紀元前5世紀のカムチャツカ半島かもしれません。
カムチャツカ半島に当時人がいなかったのだとすれば、後に続く「おじいさんとおばあさん」なる登場人物は、未来から避暑に来て、半年くらい過ごしているタイムトラベラーなのかもしれません。
少なくとも、これらを否定する情報はありません。
読者の世界で、タイムトラベルが一般化していて、更に、歴史が大きく断絶した結果、タイムトラベルの技術は人類の歴史が始まった時からあったと考えるのが「常識」であったとすれば、この解釈のラインは、それほど突飛ではないかもしれません。


「おじいさんとおばあさん」という言葉も厄介です。時代によれば、平均寿命がごっそり違うでしょう。文化次第では、40歳くらいで、もう「老人」扱いしているところもあるかもしれません。
現代日本における老人なら、「後期高齢者」をイメージするでしょうか。先に挙げた文章において、「おじいさんとおばあさん」は年金を受け取っているのでしょうか。年金というほどではなくても、社会保障制度があるのでしょうか。
身分はどうでしょうか。王族であることを否定する情報もありません。庶民かどうかもまだわかりません。(もっと言えば、どのような生活をしていれば、彼らの生きている文化圏では、「庶民」とされるのかということを判断する根拠も一切ありません)
しかも、この時点では、「犬のおまわりさん」って歌もあるみたいに、「犬のおじいさんとおばあさん」であることはあり得るかもしれません。


あえて突飛な例を沢山あげてみましたが、私達は、与えられた情報・現象に向かい合う時に、何らかの「理論」を既に前提しています。
ももたろうの解釈で、「理論」というと大げさかもしれません。解釈学という分野では、「先入見」とよばれます。偏見ではありません。前もって持っているイメージとでも思ってください。

「おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」

柴刈りが隠喩である可能性は否めません。
隠喩でないなんてことは誰によっても、何によっても決められていません。
例えば、「大嫌い!」という言葉が「大好き!」にしか聞こえないシーンが存在することを多くの人がイメージできるように、「文字通りに」受け取ることが正しいとは思えないことも現実には多く存在します。
しかし、この物語の語り手の意図(speaker's meaning)は、この時点ではなんとも言えません。文字通りの意味(word meaning)はどうでしょうか。山に行って「柴刈り」をする。
てか、柴刈りってなんでしょうね。普通に薪集めだと思ってたんですけど違うんですかね。

このおじいさん、実は007、ジェームズ・ボンドの変装で、某国への潜入任務に携わっており、山へ行くのは、その山を超えた先にある某国の会議拠点を調査に行くのを隠す「建前」なのです。
つまり、「柴刈り」は、薪集めではなく、「柴刈り(意味深)」! 会議を傍受しに行くことを意味しているのです。

とりあえずこういう風に読んでみましょう。
当然おばあさんは現地の協力者ですね。
挿絵や動画で、異なる「おじいさんとおばあさん」像が展開されていますが、それは某国による歴史の隠蔽工作ですので、信ずるに値しません。


「おばあさんが川で洗濯をしていると、ドンブラコ、ドンブラコと大きなモモが流れてきました」

大きな桃ってことは相当大きんですよ。半径3メートルくらい。
そうなると、川もすごい大きいことになっちゃいますね。
でもそうなると、川で洗濯なんて危ないでしょうから、国が工事をして、洗濯希望者が安全に仕事をできるようになっているのでしょう。
この国で、「桃」という単語が出てきた時は注意が必要です。
いわゆる桃と林檎と梨とみかんと葡萄の区別がなされない文化で、これらを合わせて「モモ」と呼んでいたのでそのうちのどれかは不明です。そういうことにしておきましょう。

あれ。でも、おばあさんは「桃を家に持ち帰った」と続きます。
私たちの知る桃だと大きすぎて持ち帰れないでしょうから(おばあさんが筋肉モリモリのマッチョマンであるか、サイキック能力の持ち主である可能性は捨て切れませんが)、「モモ」の中でも、葡萄である可能性が高そうです。
葡萄なら、そのうち一粒をもぎ取って持って帰ったと考えられます。おばあさんが筋肉モリモリマッチョマンじゃないなら、きっと葡萄を一粒持ち帰った。


あれ。でも、その中から「桃太郎」という赤ん坊が生まれてくるんですよね。
桃太郎がエイリアンでないなら、私と同じ人間なら、私とそう変わらないサイズで生まれたはずです。
いくら半径3メートル級の葡萄だとしても、そのうち一粒だったら、人間としてサイズがおかしいですよね。ちょっと小さすぎる。

ということは、先に立てておいた「大きさは半径3メートルくらい」という先入見が怪しくなってきました。
矛盾を無視して進むのは厳しいでしょう。
修正を加えることにします。

大きいといっても、これは誇張で、実際はサッカーボールくらいだった。

こんな風にして、とりあえず「整合的」にももたろうを読み通すとします。


そんな私はある時、精神分析の講義を聴いて衝撃を受けます。
フロイトは、「水は出産に関係する」と言っているそうではありませんか!

一旦、安定期に入っていた私の「ももたろう解釈」はゆらぎます。
おばあさんは拾って帰ったと言っていたけど、元々妊娠していたおばあさんが、出産したことを伝える物語だったんだと解釈を修正することにします。
そうすると、川のサイズも小ぶりでも構わないでしょうし、おばあさんも「おばあさん」とは言いながらも、実は出産適齢期くらいだったという可能性も出てきました。

桃は安産を象徴していて、この物語が語られた文化圏では、直接「出産」について語ることを避ける傾向にあるという話を歴史学者から、私が小耳に挟んだとしましょう。
このデータを得た私からすれば、フロイトの線で解釈していく根拠がより多く集まったと言えるでしょう。


ただのスパイ小説かと思えば、ジェームズ・ボンドは順応しちゃって、そこで現地の協力者との間に子供を作っちゃうという、大いに所帯染みた物語だったのです。



定義の循環とは違うよって言いたかったのかも。それと叙述トリック



……みたいな。

こんな風に、解釈って無限に増殖するんですよね。

これほど単順なお話ですら、信じられないくらい多くの想定(先入見)を必要としているかわかるでしょうか?
伝わればよいのですが。

理解も、お話を聞きながら、この登場人物の年齢はどれくらいで、どんな性格で……とか想像しますよね。
それで、時々「あ、あの印象は間違っていたのか」と気付くことがあります。そうなると、その登場人物に関する情報全体が、再組織されることになって、印象全体も修正されます。

行きつ戻りつしながら、私達は物事を理解していきますよねーってかんじです。
耐え切れないほどの解釈上の矛盾って、実は原理的にはないんだと思います。
矛盾に対して、それを回避する「パッチ」を当てたり、小さい齟齬なら無視して通り過ぎることもできますから。
(それに、私たちは現実の矛盾を、無視したり、適当に「わかりやすく」「単純に」解釈してしまうことで、避けて通っています。
例えば、陰謀論とかは、現実の複雑さに対する対応として典型的な例かもしれません。矛盾を無視するだけでなく、自分の解釈のラインを否定するような証拠をそもそも存在しないものとして扱ったり、隠蔽や誤認の結果とみなすことによって対処します。)


よく「叙述トリック」ってありますよね。
あれは解釈学的循環をうまくつかったお話ですね。

例えば。
奈須きのこ『空の境界』で、登場人物の「式」は、一人称「俺」で展開していく。
どうやら現代日本の話ですし、「俺」っていうと、普通「男」が使う言葉だし、読んでいるとツンデレバディと仲良くやってる小説っぽいなぁと読むわけです。
しかし、ある時、ある登場人物が式を指して、「女の子なんだから」と言います。

今まで抱いてきた「先入見」のままでは、安定しえないほどの齟齬を抱えることになってしまいます。
最初のあの会話は、事実上相思相愛の男女の会話だったのか!と過去のやりとりの印象まで修正せざるを得ないでしょう。

他にも、漫画なら『式の前日』なんてのもありましたよね。表題作は、仲のいいカップルかと思ったら、実は姉弟でしたーってオチです。
あ、とんでもないネタバレ食らわしましたね。気にしないでください。
叙述トリックバレたくらいで、面白くなくなる物語なんて、その程度です。『式の前日』が、どちらかは各自の判断に任せます。


認識にガツン!と修正をせまるような、ズレを与える。このズレこそが、読者にとって強烈な体験になるわけですね。そして、その体験が感情を強く動かす。
その意味では、ミステリでよくある「ミスリード」も同じメカニズムとして考えられそうです。
リプライもらって気付きましたが、ヒッチコックの「マクガフィン」は、どう位置づけられるでしょうか。ちょっと考えてみるのもいいかもしれません。


解釈学的循環とは、ざっくり言って、物語の全体の理解は部分の理解に資するし、部分の理解は全体に資する。行きつ戻りつしながら、絶えず修正していく……という話です。


言葉の印象で、「解釈学的循環」を「定義の循環」のような意味で使う人が多いのですが、そんなことはないですよ。


徒手空拳では何も読み解くことはできないってことですね。それと同時に、「先入見」抜きで、私達は物事を見ることができない。徒手空拳であることもできない。
何らかの知識なり、習俗を持っているから、言い換えると「先入見」を持っているから、物語や言葉、そして世界を受け取れる。
しかも、絶えずその見方を修正しているわけです。
ここに「対話」の地平をみるのも、自然な発想でしょう。


ハイデガーの弟子筋で、彼に大きく影響を受けながら、新たな哲学の地平を拓いたハンス・ゲオルグ・ガダマーは、この先入見に関わるものとして、「伝統」という語彙を持ち出したりするわけですが……いわゆる「伝統」とどう違うのか、彼の意図はなにか、色々考えることはありそうです。
まぁ実際に本を読んでください。

2013年9月8日日曜日

不安の周りにあるものを無作為に書き出すこと

※どうでもいい日記です
※若干精神的に疲れてます
※まとまりはいつも以上にありません



最近、自分の淹れるコーヒーがマズいのです。
むろん、院試を控えているせいだってこともわかっているんだけど。

椅子にどーんと座って、眩しいくらいに英語ができた5,6年前の自分のことを思い出した。
失敗したコーヒーはあんまり苦いので、今まさに飲んでいるコーヒー以外のことを考えなければやっていられない。今の自分よりずっと英語ができた。


夢と変化、頑張った記憶


夢だけは昔からあった。
自分はそれでも変化していくから、少しずつ自分の夢も変化していく。
やりたいことや、やり甲斐よりも、「こういう自分になりたい」っていう憧れ抜きに自分は頑張れないのだと思う。
だから、大学の「勉強」とされるものは、強制されない限り、全然苦痛ではないし、むしろ楽しい。



高校時代、自分に言い聞かせるために、「緊張するのはそれだけ頑張ってきたから。不安になるのはそれだけ自分に対して真剣だから」ってロジックひねり出してた。
緊張するのは頑張ってきたから。不安になるのは本気だから。
……だったかな。正確な表現は忘れましたが、Z会の応援コピー?の佳作かなにかになった気がします。
この言葉は、それなりに正しいと思う。


頑張った記憶のない人は、緊張しない。緊張するだけのもののを、過去に持っていないから。
過去は冷静に存在したりしない。過去は「記憶」という形で、常に現在に影響している。
不安だって同じだ。心配という言葉が、「心を配る」と書くように、自分に対してどれだけ真剣に向き合っているかということに関わる感情だと思う。


けど、この言葉はただそれだけでは指摘でしかない。
今の自分には効かない。指摘だけで変化が起こるほど、今の自分は繊細でもないし、過去の自分とも隔たってしまったんだと思う。


夢と賢くなさ、真面目系クズ


唐突に、高校時代の恋人のことを夢にみた。今日の話。今朝の話。
婚約して、地元の兵庫県で同棲を始める。親も公認で、親が顔を出しに来たりする。
露骨過ぎて、フロイトも飽きれるんじゃないかと思うくらい。


別に今も好きってほど最近の話じゃない。名前を思い出すのも久しぶりなくらいだった。
今抱えている不安や後悔があまりに募って、過去に対して抱いている不安まで掘り起こしてしまったというだけのこと。
けど、ため息ではリセットできないくらい、なんかもう疲れた。


大学に入ってから、自分は随分変わってしまったと思う。
変わってよかったと思うことも多い。
色んなことに心から興味を持って関わるようになったし、知識だって増えた。それを扱うのにも、少しずつ慣れてきたとも思うし、以前のひょろひょろした自分が微笑ましく思えるくらいにはなった。
けど、そういう即物的な頭の良さと引き換えに、「賢さ」を捨ててきたような気がする。
そこで触れたのは、「頭が良くても、賢くない」ということだった。「スマートに振る舞えても、(必ずしも)幸せにはなれない」と表現してもよかったと思う。


世間的には「頭のいい」大学にいて、(就活的な意味とは違うけど)かなり「意識の高い」テンションで勉強を4年間続けてきたと思う。
専門にも縛られないで、かなり広範に、しかも自分の武器になるように勉強してきた(はず)。

自分は『となりの怪物くん』が好きなのですが、若干自分は雫に似ていると思います。
服装に気を遣わないのもそうだけど。笑
自分のしたいこと、自分のためになると思うことをひたすらやっている。
怖いというわけでもないのだけど、誰かに真剣に相対するということがとても難しくなっている。
そうする「習慣」を失うということは、そうする「筋肉」を失ってしまうことなのかもしれない。誰かに向き合っているつもりでも、自分の「筋肉」が言うことをきかずに、そちらを向いてくれない。
意志と現実がズレていく。


友達って関係はとても楽だ。
困ったらかけつけるし、そいつのために何かするのが惜しくない。本気で心配する。
けど、「人生を背負ったり」はしない。
恋愛というのは厄介で、多分人を救うのにも似ている。

西尾維新の物語シリーズで連呼される「僕は助けないよ。君が勝手に助かるだけさ」という言葉から引き出せる論点はいくつもある。
今回の問題に即して引き出すなら、「複数人の人生を背負えるほど、人の器は大きくない」っていう有限性の指摘なんじゃないかと思う。
だから、猫物語の羽川翼の言葉は重かった。
ちゃんと恋人である戦場ヶ原ひたぎを選んだ阿良々木暦がかっこよかった。

あんたは一生ずっとそうやって、大事な言葉は絶対に言わないで、
 自分は関係無いって顔して、ずっとひとりで、生きてくんだ!(「言の葉の庭」)

自分はずっと友達に囲まれて、一人なんじゃないかって。
まぁ、それはそれでいいんだけど。
冷たい人間だってわけじゃないと思うけど、一生他人の人生の面倒なところに、自分は関わらないつもりなのかって。
そういう「頑張らなさ」が、院試への不安の遠因なんじゃないかなとか邪推しちゃうくらい。
(ちなみに「言の葉の庭」のセリフはこちらからのコピペ)

これだけ書いておいて、自分のことを、それほど頭がいいとも思えないけれど。
そういえば、『言の葉の庭』のBlu-ray買っちゃった。


「逃げなかった記憶」とか


…雫ちゃん キャンプの時の話を覚えてる?
あの時 オレは 「後悔のない選択は正解だ」 って言ったけど
あれには続きがあって
何を選んでも 
きっと人は 選ばなかったもうひとつの道を想像し続けるんだ
『となりの怪物くん』10巻

引用参考はこちら
モチーフとしては珍しくないですよね。村上春樹が繰り返し描いているテーマのひとつはこれだと思います。最近なら、坂上秋成さんの小説『惜日のアリス』も部分的にこれを扱っていたと思います。
一番見事に描いたのは、東浩紀さんの『クォンタム・ファミリーズ』の「35歳問題」かな。

何かを決断したり、選択したり、悩んだり不安にかられる時は、いつも「別様の」人生やあり方をしている自分を想像してしまいますよね。
想像したところで、元気になるのか、しょっぱい顔になるのか、希望を抱くのか、今の自分を改めて引き受けるのか、後悔が増幅するのか……それは一切わかりませんが。

「何かを選択する・引き受けるという時、自分が選んだことだけじゃなくて、選べなかったことに取り囲まれている必要がある」
という趣旨のことを、どこかであずまんが言ってた気がする。


『3月のライオン』2巻
自分はやる気を出すために、漫画家を目指す『バクマン』とか、テニスのプロを目指す『Baby steps』とか、夢に向かうタイプの漫画を読んだりします。
他のみんなが、典型的な青春を生きている中、自分たちは地味な努力を続けているようなお話。もちろん、その中にもその中でしか感じられない「青春」があるのだけど。

不器用な自分をディスったりしてみたわけですが、かといって自分を自分で見捨てられるわけでもなし。
心から嫌いになれるわけでもなし。

(そもそも、自分に対して「嫌い」とか「好き」って判断を持ち出すのが実はよくわからないんだけど)


「でもききたかったんです 桐山さんはプロになってから一年遅れでまた学校に行かれてますよね。あの… それはどうしてですか?」
「…えーと 僕は本当に将棋にしか特化してないんです。人付き合いも苦手だし
勉強は好きだけど、学校にはなじめませんでした。
人生を早く決めたことは後悔していません…
でも 多分 「逃げなかった」って記憶が欲しかったんだと 思います」
『3月のライオン』2巻

先の画像は、この会話の後にくるカットです。

私には逃げた記憶も、逃げなかった記憶もあります。
まぁ、多くの人はそうだと思いますが。
自分を励ますほどの、大きな「逃げなかった記憶」はありません。
これまた、多くの人はそうだと思いますが。

私は本当に色んな人に助けられていて、その人達に早く形にして何かを見せたいと思う。
これは長らく私を駆動している行動原理でした。
もう何人かに対しては、「もう間に合わない」ことだったりします。だから、生き急がねば、とも思います。

私にとって「逃げなかった記憶」とは、結局のところ、何をするにしても避けられない、この行動原理を、ささやかにでも達成してしまうことによって得る他ないのだと思います。
「物」で示したい。
自分にとってそれは、「本」を出してしまうことなのかもしれない。

そう気付いたのは1年ほど前のことなのに、もう忘れてしまっていた。
不安になると単順なことも思い出せなくなる。

『3月のライオン』6巻

昔から一通り収集したり、習熟すると「飽きてしまう」癖がある。
それに、自分の考えはかなりすぐに変わってしまうとも思っている。
それもあって、座右の銘なるものを、未だかつて持ったことがない。

けど、この人に対して恥ずかしくない生き方や行動をしようと思っている人は何人かいる。
『3月のライオン』の中にもいるし、『まおゆう』の中にもいるし、『サマー/タイム/トラベラー』の中にもいる。
虚構の登場人物と張り合うのは難しい。
実質的に自分と向き合うことを強いられているから。

あっそうか。不安なのは、自分と「向き合っている」からだったか。
他人の人生と関わる以前の部分で、自分に達成する必要のあることがわかっているなら、自分という他人に対しては真剣に向き合えているなら、とりあえずはそれでいいのかもしれない。



長々書いてすっきりしたところで。笑
まとまらない記事書いちゃってすみませんw
その内消すかもしれませんが

2013年8月19日月曜日

『ワールドゲイズ クリップス』と『3月のライオン』―風車みたいな空転、スミスという軽さ

五十嵐藍さんの 『ワールドゲイズ クリップス』を買った。
お金ないくせに買った。でも、2冊にしておいた。レシートはすぐにどこかへやった。

最近、色んな人に「読んでるよ」「楽しみにしてる」という声を、(お世辞でしょうが)頂くので、ずっと気になっていたこの記事を書き直すことにしました。
元エントリは11年の11月頃だったかな。



五十嵐藍さんというと、『鬼灯さん家のアネキ』は有名かな、と思います

『鬼灯さん家のアネキ』は、一見軽薄なストーリーだけれど、展開が本当にうまい。
にくい、と言うべきか。
五十嵐さんの目を見張る実力もあって、ただ単なる「チャラい」漫画じゃなくなった。(他にいい言葉浮かばない)
設定だけ聴けば、最初はワンアイデアの、「なんでもない」「普通の」「面白い」漫画でしかないのに。

人気が出たから続刊して、あのような展開になったのでしょうが、五十嵐藍に脱帽です。
……あ、ちょっと褒め過ぎたかもしれません。
ハードルあげちゃうと、楽しめるものも楽しめなくなっちゃいますから。


『ワールドゲイズ クリップス』の視線、の回避


画像を見てすぐに誰しも感じることだと思いますが、何を差し置いても、表紙がズルい。
こんな目で、こんな表情をされたら、もう買うしかないですよねー


並べての本のように、キャラがこちらを向いているのでなく、身体は半ばこちらを向いているのに、目と顔は斜を向いていることが、かなり示唆的。
本編読了後には、「やっぱこの表紙じゃないとなぁ」という納得感すら得られることは請け合いです。


ラノベや漫画の表紙を改めて眺めてみてほしいのですが、ほとんどのものがキャラクターは「こちら」を向いていることかと思います。
アニメの「版権絵」も大抵そうですよね。あと、実は雑誌のグラビアも大抵「こっち」を向いています。

表紙のキャラクターや人物が、なぜ読者や手に取る人の方を向いているかというと、「手にとってほしい」からですよね、多分。
《似たような》本はたくさんあるし、《魅力的》で、《お金を出してまで読む価値のある》本なんて五万とある。
その中で、それでもあくまでも、この本を「手にとってほしい」からキャラクターや人物は、読者の方に視線を送っている。



しかし待て。

――――この本のキャラクターは、「こちら」を向いていないじゃないか。



なぜかということは語りません。
ワンコインかそこらなので、騙されてみてください。いいから読んでください。
そりゃ、合わない人もいるでしょうとも。
ただ合う人には、決して一生手放さない本になるでしょうけど。



追記。
この発想はお友達の、なぞべーむさんに負っています。NETOKARUでの寄稿が見つかったので貼っておきますね。
彼女たちの視線と、僕たちの視線――コンテクチュアズ「genron etc. #1」に寄せて


風車という軽さ



『鬼灯さん家のアネキ』を描いた人だけあって、何でもないストーリーが軽くて重い。(けれど、やはり軽い)

一言で表現すれば、風車みたいな話だと思った。



見ていて決して軽くないはずなのに、するりと読者を通り抜けていく。心で重いものがカラカラと空転する。重く見えるだけで、とても薄くて軽い。危うさすら感じるくらい、軽い。
そういう空転、そういう感じ。

登場人物、みんな水彩画みたいに薄くて、言葉はしんと静かなくせに、とても軽い。体重なんて無いみたいにまわっていく。

主人公が「委員長」だというのがまたいい。
委員長に当てられるラベルといえば――真面目、勉強ができる、(真面目すぎて)空気を読まない、(あるいは真面目すぎて)地味、(地味で)存在感が薄い

色々あるとは思いますが。


スミスという軽さ


『3月のライオン』3巻には、最愛のキャラであるスミスが主役のシーンがあります。
(将棋の盤面についてはこちらを)

彼の使う戦法も「風車」と呼ばれるものです。
その3巻の中にはこんな一節があります。

これがスミス(棋士)。軽い男?


後藤の型は 居飛車 穴熊
対する俺は 風車
後藤が「重く」「堅い」とすれば
オレは「軽く」「広く」が持ち味だ
(Chapter26 「黒い河」その② ※俺とオレの部分は原文ママ)



戦術面でも、生活面でも、迷っていたスミスは、敗北した対局の後で(そもそも、彼は「挑戦者」としてどれだけ落ち着いて相対するかということに腐心していた)、対戦者である後藤にこう言われます。



軽いな

――だが まだちょっと重い―― 
☗2六角とのぞいた後 ☖5二金と守ったな
☖6三金と上がった方が良かったな
あれで「重さ」が出てしまった 
……… 
身軽さが信条なのだろう
――ならば 
迷うな 
(同上)

感想戦で、「分厚い」壁である後藤に、スミスは後押しすらされてしまいます。
対戦者にそう言われた直後、スミスは対局からの帰り道で、「為す術なく完敗したあげく 憑き物まで落とされて フルコースかよ…」と、事も無げに認めてしまう。

相手の「強さ」だけでなく、自分の信念の「薄さ」も、後藤という男の「分厚さ」も認めてしまう。

スミスは、軽い。
風車のように軽い。

棋士にとって、将棋は、それによって口を糊するものでもあるのでしょう。
漫画家にとって、漫画が、生活を支える手段でもあるのと同じように。

それなのに、スミスは軽い。
帰り道、半ばテンションのままにやけっぱちで、「お姉ちゃんたちのいる店で飲んだくれる」か、「家に帰って布団をかぶってワンワン泣く」か、どっちにしてやろうか!と悩みながらも、ふと捨て猫を見つけてしまったスミスは、事も無げに、その子猫を連れて帰ってしまう。


スミスは軽い。
スミスを取り巻く生活そのものが、空転するようにまわり、たくさんのものを広く巻き込んでいく。

淡々と、「非行」に走る、『ワールドゲイズ クリップス』の委員長と同じで。
軽く、広く。

いや、委員長は学生だし、スミスのような「大人」よりは手の届く範囲は狭いけど。


からからと、淡々とまわっていく風車。
二人とも、「軽い」けれど、重くないけれど


――――無視できるわけがないのだ。彼らのように、「軽く」生きていない人間は。





……などと申しております。
ミルチでしたー

追記。そういえば、ドン・キホーテが挑むのは「風車(ふうしゃ)」でしたね。
羽海野チカさんが意識しているか否かとは全く無関係に、なかなか味わい深い気もします。


2013年8月15日木曜日

同人誌『カラフルパッチワーク』の通販に関して

どうも。ミルチです。
更新が遅くなってすみません。

同人誌の内容や、全体の統一的なテーマである「こじらせた青春」話を、歌人でお友達の馬場めぐみさんとお話した告知・宣伝Ustreamの録音がありますー!
(※ユーストの仕様変更で、告知動画は消えています↑)


同人誌の詳細や、頒布情報については、こちらをご覧ください。

同人誌の注文について

2015年12月追記:在庫がもうないと思っていたのですが、残り数冊ありました。→お早めに!



yuzumike✕gmail.com (✕は@に置き換えてください)
このメールアドレスに、以下の記入事項を記入した上で、件名を「カラフルパッチワーク」にしてお送りください(気付き漏れをなくすためなのでご協力を)。
メールを確認し次第、振込先や注文の確認のため、返信致します。
→万一 連絡がない場合、ツイッターなどでご連絡ください。

ご記入漏れや、誤記などありませんようご注意ください。

記入事項
・郵便番号
・住所
・氏名
・注文個数
・値段
・備考、質問などあれば

(注意!)
複数冊でも送料は一律300円扱いとし、同人誌本体は1200円とします。
つまり、三冊ご購入いただく場合は以下のようになります。
1200×3+300=3900円
この場合、上記項目の「値段」の箇所は、3900円とお書きください。
一冊ご購入の場合は、1200×1+300=1500円です

(注意!!)
当然ながら個人情報は、同人誌の送付以外の目的で使用致しません。

表紙絵「陽溜まりのようだ」byけーしん
この絵をみて満足しているそこのあなた!
この絵に対してモチーフを与えている物語を、ぜひ読んでみてくださいな!

ちなみにけーしんさんには表紙と裏表紙を担当してもらいました。

以下には、ざっくり関係者・参加者のツイートや、感想などをいくつか引用しておきます。













2013年8月9日金曜日

Dixie FlatlineさんのGUMI曲"Soul Breeze"を英訳していたので。

この曲が投稿された当時(12年の2月)、超ヘビロテしてました。ほんとにいい曲ですよね。音楽は、生活や人生を飾るもので、気分の調整にも役立ったりしますが、このナンバーは、まさにそのような意味での「音楽」にふさわしいものだと思います。
…平たくいえば、「名曲」ってことですね。

ある人から「PV的なものが作りたいから」と声をかけられて、1年以上前に、この曲の歌詞を英訳したのですが(英詞ではなく英訳)、ありがちな話、ぽしゃったので。
ずーっとお蔵(Dropbox)に眠らせておくのもなんかさみしいのでブログあげちゃう、的な気分なう。いまここです。

実際の内容は、元の歌詞→英訳→英訳の和訳の順番に書かれています。
英訳にあたっては、ニュアンスを勝手に染め上げて、かなり比喩を多用しています。多分、訳した当時は疲れてたんでしょうね。感傷的でちょっと酔ってる感ある。笑
AメロならAメロ同士で……、メロディの対になってる部分の、英語の文構造が対応するように訳してあります。
歌わないので、韻は踏んでません。



Dixie Flatline  Soul BreezeGUMIオリジナル曲)


今日の喧嘩は何のため
Why did we quarrel today?
(どうして今日は喧嘩したの?)
君の不満はいつか消えるの?
Your complaint will always linger on like a few bubbles.
(あなたの不満は、いつも泡みたいに残るよね)
平気だよって無理をして
ねぇ最後に笑いあったのいつだっけ?
When was the last time we'd talked and smiled as if everything was all right?
(なんにも問題ないみたいに、最後に、話したり笑ったりしたのは、いつだった?)


混ざってしまった愛と情
The nebulous mixture of two emotional things, namely romance and sympathy,
(曖昧に混ざった2つの感情、ロマンスと同情)
すがってしまえばどこにも行けない
It sometimes worked as fetters, which got us nowhere.
(それが時折、枷になったりして、二人共どうにもならなくなった。)
昨日を昨日にする為に
To say good-bye for the past days of us,
(過ごした過去の日々に、さよならを言うために)
お別れの言葉 悲しい言葉
I’ m saying some parting words, maybe unhappy.
(私は別れの言葉を言う。心が痛むような言葉かもしれないけれど)

そうさこんな感じで歩いていこう
Now, I’m gonna go my way of life like this;
(まぁ、こんな感じで、好きに生きようと思う)
肌をそよぐ風に 胸に宿る音を
Feeling the cheerful voice of my soul, animated by a bracing breeze
(爽やかな風に踊る、魂の朗らかな声を感じて)
流した涙の後に 続くよ僕の道
Shedding tears for you will be a guide for the future to my renewed way
(あなたのために流した涙が、私の新しい道に導く、未来への標になる)
心の荷物は置いていこう
Taiking off the load of my mind.
(心の重荷を下ろして)

人にはとても厳しくて  自分は言い訳ばかりなんて
You’re always strict to others and making excuse for yourself.
(あなたは、いっつも人に厳しくて、自分のために言い訳してる。)
どんな風に見えると思う?
Have you ever imagined how people think of you?
(人があなたのことどんなふうに思ってるか考えたことある?)
きっと君は気づいてないでしょ
I bet you never realize that.
(まぁ、そんなこと絶対気付かないってかけてもいいけど。)

出会ってしまった陰と陽
The unnatural encounter of two conflicting things, like light and shadow
(対立する2つの不自然な出会い、光と影みたいな)
気づいてしまえば訳のない話
It was a Columbus’s egg; we were too different to get along.
(コロンブスの卵みたいな話だった。うまくやってくいくには、私たち、違いすぎてた。)
明日を明日にする為に
To say hello for the coming days of each,
(それぞれのきたるべき日に挨拶するために)
お別れの言葉 正しい言葉
I’m saying my parting words, probably reasonable
(別れの言葉を言う。十中八九理に適っている言葉だと思う。)

そうさこんな感じで歩いていこう
Now, I’m gonna go my way of life like this;
(まぁ、こんな感じで、好きに生きようと思う。)
ささめく陽の光 頬に帯びる熱を
Feeling the anticipative flush on my cheek, encouraged by the soft sunshine
(柔らかい日の光の声援を受け、期待による頬の紅潮を感じて)
Shedding tears for you will be a guide for the future to my renewed way
(あなたのために流した涙が、私の新しい道に導く、未来への標になる)
心の荷物は置いていこう
Taking off the load of my mind
(心の重みを下ろして)

そうさこんな感じで歩いていこう
Now, I’m gonna go my way of life like this;
(まぁ、こんな感じで、好きに生きようと思う。)
肌をそよぐ風に 胸に宿る音を
Feeling the cheerful voice of my soul, animated by a bracing breeze
(爽やかな風に踊る、魂の朗らかな声を感じて)
流した涙の後に 続くよ僕の道
Shedding tears for you will be a guide for the future to my renewed way
(あなたのために流した涙が、私の新しい道に導く、未来への標になる。)
心の荷物は置いていこう
Taking off the loads of my mind
(心の重荷を下ろして)

la la la...
feel so high feel so good 長い雨の終わり
at the end of the lingering rain
(ぐずついた長雨の終わりに)

la la la...
feel so high feel so good 素敵な日の始まり
at the dawn of the wonderful days
(素敵な日々の夜明けに)


声をかけてもらったときは、これを歌うわけじゃないと聞いたので、曲で詞が対になっている所は、英訳の文構造も対になるようにしてみました。そこそこチャレンジングな訳かもしれません。
誤訳あったらすみません。大体はあってるはずだけど、テンスは怪しいかなw
元はもうちょっと現在形があったけど、掲載にあたって、作中主体がいままさに別れを言おうとしている《恋人》のことを語るときは、事実の指摘以上のものにならないように、多くはざっくり過去形に変えちゃいました。

雰囲気は出てるんじゃないでしょうか。英訳を経由することで見える、別のアスペクトを感じてもらえたら、「翻訳」の本義が達成されたと言えるでしょう。
僕、満足!

2013年8月3日土曜日

同人誌『カラフルパッチワーク』について(頒布・紹介など)

ようやく情報公開できます。
お久しぶりです、朝永ミルチです。こないだ23になりました。あまいものください。……それはさておきですね。。


同人誌の内容や、全体の統一的なテーマである「こじらせた青春」話を、歌人でお友達の馬場めぐみさんとお話した告知・宣伝Ustreamの録音がありますー!
ぐだぐだかつ前半の音声がロボロボしてるのであしからず。

私、朝永ミルチは同人誌を作ることになりました。みなさんの協力と好意の上に成り立っている創作系の同人誌です。
ほんとはコミケに委託したかったのですが、間に合いませんでした…orz



表紙絵「陽溜まりのようだ」byけーしん


通販・頒布情報


自家通販に関してはこちらを参照ください。→詳細はこちら

頒布予定イベントは、(今後のものはここに書きます)

サークル名は「カラフルパッチワーク」(同人誌と同じ)

委託イベントは、(今後のものはここに書きます)
(詳細なども随時更新)



同人誌について(ふわっとした説明?)


タイトルは『カラフルパッチワーク』。
いつの間にか、自分を取り囲んでいる「どうにもならないもの」「どうしようもないこと」。
人間関係における、自分を縛るもの。
本書に収録された、文章そしてイラストは、こういったことをモチーフが共通していると思います。

参加者の馬場めぐみさんが書いた小説の言葉を借りれば、こういうことです。
言ってしまったことは取り返しがつかないし、してしまったことも取り返しがつかない。あたしは13歳にして既に取り返しのつかないことに取り囲まれて生きている。(「さよなら夕焼け」 より)


13歳だろうと、23歳だろうと、きっと63歳だろうと、私は何かに縛られている。

もちろん、それはネガティブな意味合いだけではなくて。私を規定する何かだろうし。「私の可能性」という言葉に対応させるなら、「私の不可能性」とでも言うべき何か。
私が逃れられない、私でしかないもの。
そして、私を私にするもの……とまでいうと大げさか。

そういえば、森見登美彦が《だらだら》と扱っているのも、そういう話、「私の不可能性」なのかもしれませんね。
『四畳半神話大系』『有頂天家族』『夜は短し歩けよ乙女』にしろ)


私の手のひらの中には、それなりに沢山の色があって、幸せもあって、居心地もよくて。
でも、手の届くより遠くには、あまりにも不器用で。
不恰好に接木するように。ずっと水平にならない椅子みたいに。
そういう、カラフルな、寄せ集めた「私の不可能性」たち。

よくわかんないですよねw まぁ、いいや。
誰かに話したことはあるのですが、隠された個人的なテーマは谷川史子さんでした(谷川史子さん好きには読んでほしい)。けど、谷川史子さんだけでは満足できない。モチーフは重なるとこもあるけど、結構違うはずです。(『他人暮らし』、『P.S.アイラブユー』、『おひとりさま物語』とか)

個々の文章は下で紹介します。


『カラフルパッチワーク』の紹介(目次・値段)


与太話が過ぎましたね。

表紙はけーしん @keisin さん。ずっと好きで応援していたので(和紙道展でも、絵買ったくらい)、依頼できたことがまず嬉しいのですが、想像以上に魅力的なイラストがあがってきました。
ひいき目もあるでしょうが、けーしん絵で、最上位にいい絵じゃないですかね!!(自画自賛?他画自賛?)
裏表紙もけーしんさんに描いてもらいましたが、これは買ってのお楽しみ、です。


目次は以下の通り。目次上の表記では、敬称略。

No.1 エッセイ「水流に見る夢」 文:坂上秋成、絵:さんざし 
No.2 エッセイ「欲望の行方」 文:馬場めぐみ、絵:大沼もん 
No.3 小説「さよなら夕焼け」 文:馬場めぐみ、絵:おきつぐ 
No.4 小説「魔法使いはいらない子」 文:朝永ミルチ、絵:くぼみ

なんと、全部で74ページです。サイズはA5
わーお。自分の原稿が長すぎて絶望的ですね(自分の財布が)。


価格は、イベント頒布1,000円
通販は送料込みで1,500円。直接自分に会える人にも1,000円で手売りします。

大丈夫です、これでも十分赤字なのでwwww
……ソンエキブンキテンナド,ソンザイシナイ!! …(`;ω;´)笑
あまり部数は刷ってませんのでお早めに。

コンテンツ紹介(個々の紹介)


簡単に参加者と内容の紹介をします(大体出る順)
・「水流に見る夢」
文芸批評家で小説家(13年4月に『惜日のアリス』を上梓されました)の坂上秋成 @ssakagami さんのエッセイ。(ちなみに、小説の感想もブログに書いています。)
タイトルがなかなか巧妙で、文章もなかなかニヤリとできる内容なので、挿絵は結構時間をかけて相談をして、さんざし @xxsanzashixx さんに描いてもらいました。
「坂上さんのエッセイ読みたいなぁ。それも、普段聞かない話題で」

……この目論見は間違いなく達成されました。


・「欲望の行方」「さよなら夕焼け」
馬場めぐみ @onemomonga さんは、短歌研究新人賞を受賞された歌人です。
個人的に彼女の言葉に興味があって(馬場さんの興味に興味があるというより)、それにとても《変わった》方なので、ずっと注目していました。短歌以外にはなにをしたら、もっと面白い・より新しい馬場めぐみが見れるだろうか、と考えて、小説を書いてもらいました。

依頼をする前から、馬場さんの小説に付くイラストはおきつぐ @okitugu_ さんがいいなと確信していたので、そのように。「百合小説を書きます!(ふんすふんす)」と意気込んでいた馬場さんですが、ベタベタ百合っぽい小説というより、しみじみ百合です。超真っ当な青春小説だと思います。何度も読み返して、小説の「言葉」を確かめてほしい小説です。正直、3回目くらいでちょっと泣きました。ちょっとだけ。


エッセイは、ツイッターでよく出てくる話題の一つであるバンプ・オブ・チキン関係。バンプでロキノン?に文章を書いたこともあるだけあって、愛が重いですw 馬場さんのファンでもある大沼もん @onm_ctrn さんが挿絵。インタビューと一緒に読めば、より楽しめると思います(インタビュー「思い詰めの詩学」)。


・「魔法使いはいらない子」

最後の自分の小説は、魔法がオワコンになって、科学に代替されてるという設定の現代のお話です。
とはいえ、相変わらず一部の大学では、「魔法学」が学究されていて、お金にならないし担い手もいない、使い勝手も悪い魔法を学びたがる男の子が主人公です。
魔法の潜在能力も大して持っていないまま、飛び込んだ世界では……。

人生がいつ「本番」を迎えるのか、と。悶々としている感じの思春期さんです。
挿絵は、昔からの馴染みである、イラストレーターのくぼみさんに描いてもらいました。正直神がかってるイラスト。

依頼をメインにして、申し訳程度の文を書く
つもりが、長くなってしまって我ながらしょんぼりしているのですが、結構自分のものも面白いのではないのかな、と思ってます。多分、面白い。うん、面白い。(言い聞かせ)


全体的に、統一感のある本になったんじゃないかな、と思います。
編集も頑張ったので手にとっていただけると嬉しいです。
よろしくお願いします◎
質問などは、ツイッター(@mircea_morning)か、メールyamanekojumpあっとyahoo.co.jpまで。メールは気づくの遅れると思うのでツイッター推奨です。
追記。『都市のイメージ、イメージの都市』という同人誌も作ってます。こっちは電子版売ってます。300円です。