2017年12月11日月曜日

大槻香奈個展「生の断面、死の断片」(2017)の感想

東京のアートコンプレックスセンターで開催されていた、大槻香奈さんの展示「生の断面 死の断片」(11/3-12/3, 2017)に行ってきました。

大槻さんの関わって展示を観に行ったときは、何らかの感想を書くことにしています。(例えば、「揺らぎの中のせいとし展」(2017)など)



そうして、感想を書くのは、大槻さんの展示空間の中で、そこに描かれ、構成されているものを自分なりに線で結ぶことを通じて、自分が考えたかったけれど、言葉にしていなかったことを明確化できるような感じがあるからなんです。

さておき、少し長くなると思いますが、お付き合いください。
使用した写真は、大槻さん自身がツイッターに挙げているものに限りました。
(以下、敬称略)




線を引くこと


『精霊の守り人』や『獣の奏者』で知られる作家・人類学者の上橋菜穂子は、『物語ること、生きること』(講談社文庫)の中で、こんなことを言っている。

物語は、見えなかった点と点を結ぶ線を、想像する力をくれます。想像力というのは、ありもしないことを、ただ空想することとは、少し違う気がします。こうあってほしいと願うことがあって、どうやったらそうなるのだろうと、自分なりに線を引いてみること。その線が間違っているかどうかは、きっと、現実が教えてくれるでしょう。 (p.184)

この心訴える表現を、小説のような「物語」に限定する必要はない。
というより、ここでは、「点と点を結ぶ線」という表現の方に注目しておきたい。上橋曰く、「私たちの想像力が、見えなかった点と点を結ぶ線を引く」。

こうした線は、私たち人間が、そのままでは無秩序でつかみどころのない世界を、取り扱うことのできるものに変えてくれる。
線というメタファーは、私たちが状況を整えるためになくてはならない道具立てだと言ってもいい。

一例を見よう。上橋は、国際アンデルセン賞を受賞という自身にとっては青天の霹靂のような体験を、タヌキに化かされているようだ、と述懐している。
でも、まだ、今でも手賀沼(千葉県)のあたりに住んでいるタヌキにだまされている気がします。朝起きたら、私の頭の上に木の葉が乗ってたらどうしようって(笑) ハフポスでの2014年のインタビュー

不可解な出来事を、キツネやタヌキのしわざにするということが、かつて日本の各地で行われていた。冗談としてではなく、説明しかねる出来事に対する納得のいく説明として、そうした論法は、幾度も使われてきた。
(内山節は、そうした説明が、20世紀後半に機能しなくなった、と指摘する。cf. 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』

こちら側の秩序で説明がつかないものを、あちら側のせいだとして説明し、動揺した状況を静めようとする。線引きは、あらゆる意味で、私たちの生の基本にあると言っていい。


このとき、人間の住む「こちら」と、キツネやタヌキの生きる不可解な「あちら」とが線引きされている。
こうした見解を要約するような言葉を、社会人類学者のエドマンド・リーチは残している。
目に見えるむきだしの荒々しい自然は、無数の無秩序な曲線のごたまぜである。一直線に伸びる線もそこにはないし、規則性のあるどんな種類の幾何学的かたちもないに等しい。しかし、文化という人間によって作られ、飼いならされた世界は、直線、矩形、三角形、円などのさまざまなかたちをそこかしこに含んでいるのである。(Leach, Culture and Communication, Cambridge Univ. Press, p.51)

とはいえ、人類学者のティム・インゴルドは、「この意見は一見してかなり常軌を逸している」として、『ラインズ:線の文化史』でコメントを加えている。
「自然世界にはあらゆる種類の規則的な線と形態が満ちあふれている」し、「人間という居住者が生を営みながら制作するあらゆる線(lines)のなかに、まったく規則的なものはほんのわずかしかない」(工藤晋訳、238頁)。
インゴルド曰く、自然の生み出すライン、人間の文化が生み出すライン、そのいずれもが、それなりに即興的で荒々しく、それなりに規則的で整っている、というわけだ。
「自然は直線を憎悪する」と記したロマン派の建築家・造園家のウィリアム・ケントの言葉には、確かに一片の真理がある。しかし、それは事態の半分にすぎなかった。



線で囲うこと


以上のような話は、前置きにすぎないが、大槻の作品に沿うような道具を提供してくれている。

「揺らぎの中のせいとし展」でも展示されたこの作品には、格子が重ねられている。

「選び育つ」

ミシェル・ド・セルトーは、近代作家を世界から隔たって、孤立した主体とみなした。インゴルドは、セルトーの見解を印象的な言葉で要約している。

目の届くかぎりあらゆるものの主人である作家は、植民地生活者が地球に、都市計画者が荒れ地に対峙するがごとく、白紙に対峙して、その上に自らの制作を重ねていく。植民地支配された空間に社会がつくられるように、また、地図で囲い込まれた空間に都市がつくられるように、書かれたテクストはページという空間のなかで制作される。テクストとは、制作物――組み立てられ、つくられたもの――であり、以前何もなかったところに(あるいは、あらかじめそこにあったものは何であれ、その過程で撤去されて)築かれるものである。 (インゴルド『ラインズ』35頁)

インゴルド曰く、「表面とそこに築かれる構築物の所有権を主張する」点は、中世の西洋の制作物とは根本的に性格が異なるとしている。
大槻の絵の中の「囲い」は、そうした「近代的」性格を持っているのだろうか。


「水の窓」

この絵では、格子が途切れていたり、眼の下に隠されて目立たなくなっていることがわかる。
いや、それ以上に、線は揺らいでいるし、厳密な意味ではまっすぐとは言えない。
少なくとも、CADなどで引く線や、エクセルが各セルを囲う線とは大きく違っている。


小さい頃に遊ぶとき、「ちょっと待って」(関西弁的に言えば、「ちょいたんま」)と、おにごっこなり、かくれんぼなり、色鬼なりの中断を申し出るとき、足先で地面に円を描くことがあった。
そこが「無敵ゾーン」になるという印。
あるいは、両手を自分の肩に添えるように、クロスさせて、同じ言葉を言うという作法もあった。
自分の身体に、腕が作るバツ印を重ねることで、「わたし」を守り、中断することができるという証だった。
いずれも、「わたし」や「わたしのいる場所」を囲ったり、秩序ある線を重ねることで、「こちら側」を守ろうとする原初的な発想の現われのように思える。

そうした発想は、「家画」にも垣間見える。

「家画」

しかし、赤の枠を見ればわかるように、ここでは、囲うことそのものが頓挫している。囲おうとする、線を引こうとする欲求だけは残しながら。
世界を整え、秩序を維持したいのだが、それを完全に果たすことはできない、というように。



線を忘れる、線を裏切る


小さい頃、遊びに興じる子どもは、必死に線を引くのだが、そうして引いた線の多くを、人は忘れているだろう。
大槻は、会期中に、こうつぶやいている。

会期中に作品がじわじわ変化している事や、24時間でアーカイブが切れるインスタライブで作品解説していたりするのは「あれ、前どんなこと言ってたんだっけ?」みたいなものが特に今回の展示では必要だと思ってるから。どこまで実感出来るのか、覚えているか、大事に思うのか 2017/11/23

私たちは、知らず知らずのうちに、ありうる無数の可能性の中から、自分の引こうとする線を選び、線を引いている。

「消えないように線を引く」

この写真と併せて、「勢いのある線にみえるかもしれませんが、面としてじっくり色を乗せながら描いています」と書いている。
「私はやはり、クッションや絨毯の柄、あと線香、植木鉢のような形や、墓石のような塊を描いた時に、家を感じるようです」と続けられていることからわかるとおり、それは、慎重に選ばれ、引かれた線だ。2017/11/16
(私たちは、この言葉を、「選び育つ」の絵に添えられた、「選ばないと育たない」という言葉に、直接重ねて読んでいい。育つことには、選ぶことが、線を選ぶことが、付きまとう。たとえ、近代的な成熟とは異なる姿であっても、そのとき何かが「育って」いるのかもしれない。)


「かがみ」

少女の顔や胸のあたりを、はっきりと引かれた、不規則な楕円が取り囲んでいる。
画像が小さいために確認しづらい人もいるだろうが、そうした取り囲みの線を越えて、少女の絵は、展開されている。

この少女に重ねるように誰かが引いた線は、当の少女によってはみ出されている。
実は、こうした展開は展示内で執拗に繰り返されている。

「宿」

家を守るように、鰻のように描かれた紐のセクションと、家のセクションは、色で作られた境界により分割されている。
とはいえ、その家の切っ先は、海底のような濃紺のエリアに突き出して展開される。

他にも類似の目立った例は、枚挙にいとまがない。
展示空間、右方の両側に飾られていた長く大きい二つの作品は、継ぎ合わされた紙であり、それにより作られた格子状の模様に沿っているかに見えながら、各所で、そうした線引きを越えていくようなモチーフが描き込まれている。
(以下の写真に写った、長い作品にも、「格子」がある。)



アメリカの哲学者・心理学者のウィリアム・ジェイムズは、私たちは、規則的な事物を探しながら生きていると考えた。
点と点を結ぶ、見えない線を引きながら、私たちは世界に秩序を作り、名づけ、数えたり取り扱ったりできるものにしていく。
しかし、話はそれで済まない。

私たちが探すのは、もっぱら規則的な類の事物であり、それを器用に発見し、自分の記憶に保存していきます。それが他の規則的な類のものと共に蓄積され、その集積が私たちの百科全書を埋めるのです。しかし、規則的な事物の間にも周囲にも、誰も一緒に考えたこともない諸対象の、私たちの注意を未だ惹きつけていない諸関係の、未確定で名の知れない混沌(an infinite anonymous chaos)が横たわっています。 William James, The Varieties of Religious Experiences, Dover, p.439

私たちが引く線を、線を重ねられた対象は常に裏切っていく。
私たちは、何か中身のあるものを取り扱っていると信じ、日常を送っているのだが、それは勘違いかもしれない。
本当は、不可解で規定されない混沌、私たちの知らない秩序が、そばに蠢いている。



構成する/侵入する断片


ティム・インゴルドは、フリーハンドで線を引くときと、定規を使って線を引くときを区別している。少し長いが、見ておこう。

徒歩旅行(wayfaring)の場合、旅行者はある場所に到達してはじめてそこに至るまでに自分が辿った経路を把握したと言える。歩いているあいだずっと彼は、進むにつれて変化しつづける眺望や地平線と連動する小道に注意を払わなくてはならない。あなたがペンや鉛筆を持つときも同じである。書くあいだずっと、書き進める方向に注意しながらそれを調節する必要がある。だからいくらか捻じれたり曲がったりすることは避けられない。輸送手段(transport)を用いる場合、徒歩旅行とは対照的に、旅行者は出発前からすでに経路を設定している。旅行とは、ただその筋書き(plot)を実行するだけのことだ。二点を結ぶために定規でラインを引くときもまったく同様である。定規をそのまっすぐな縁が二つの点に接するように置くだけで、ペン先や鉛筆の先端は、描かれる前から既に完全に決定されている。(中略)定規が使われるや否や、徒歩旅行をおこなうペンの本質であるリスクの高い技は、まっすぐ目的地に向かう確実な技へと変化する。  インゴルド『ラインズ』248頁

インゴルドは注意深く、現実の複雑さに注意を払っている。近代的な輸送(transport)も、完璧・理想的な直線ではなく、実際は常に「徒歩旅行の要素」を含んでいる。
同様に、「完璧にまっすぐな直線を――定規を使ってさえ、引くことなどできるものではない」。
定規がずれるかもしれず、手の動きでペンの角度が変わるかもしれず、ペン先にかける圧力を一定にすることは困難だ。そもそも、現実の定規が欠けたり歪んだりしていない保証はない。
(興味深いことに、「さらに言えば、ラインを引くには時間がかかる」と当たり前にも見える指摘をインゴルドは強調しているのだが、話が長くなるので割愛しておく。)

ここから導き出せる教訓は、私たちが、何らかの対象を、つまり、世界を把握しようとすべく、世界に描き込む線、境界線は、徒歩旅行のように曖昧で揺らいだ要素を備えている、ということだ。
恐らく、大槻の作品は、これを地で行くものだ。

「柱」


先に見た、「宿」という上下で色分けされた作品では、上に鯰か鰻のように、黒く曲がった線が描かれていた。
そこから示唆されるのは、そうして描き込まれる線自体が、時折人間の理解を越えて、動き出す「あちら側」のものかもしれない、ということではないだろうか。



異なる時間に見た同じ風景を張り合わせたような、ばらばらの時間に、ばらばらの人が見た思いを張り合わせたように背景は区切られている。
その区画化された秩序同士が、曖昧に溶け、混じり合い、重なっている。境界侵犯が起こっている。
(私は、2015年の大槻の個展「わたしを忘れないで。」を捉えるために、境界侵犯という言葉を使用した。そちらも参照のこと。)

ここでは、それ以上に、少女を線が貫いていることに視線を振っておきたい。
何かを別のものと区切ることで、私たちは世界を理解している。線を引くことは、こちらとあちらを分けたり、わたしを守ったりするためのものではなかったのか。

アメリカの哲学者、スタンリー・カヴェルは、エマソンの次の一節に注目している。

「私たちが最も固く握りしめる(clutch)とき、どんな対象も私たちの指から滑り落ちてしまう。私は、この虚ろさと儚さを、私たちの条件の最も不格好な(unhandsome)部分とみなす」とエマソンは書いた。  (S. Cavell, Conditions Handsome and Unhandsome, Chicago, p.38)

ハンサムといっても、イケメンとは(さしあたり)関係がない。ハンサムには、「整った」という意味があり、そこから、「格好」とか「結構」のよさという意味合いが導かれている。
この「手(hand)」のニュアンスに注目し、手の中に――手の格子に――収めたそばから、それをはみ出していくという世界の捉えどころのなさ、究極的な掴み切れなさを、人間である限り避けることのできない条件とカヴェルはみなしている。
私たちは、不格好な(unhandsome)な条件から逃れられない。

今あるのと、異なる秩序が存在する、という想像力を駆使するものとして、私たちはホラーというジャンルを知っている。
「ホラー」、あるいは、「怪奇的なもの(the weird)」は、「私たちの考えているのとは違った仕方で、世界は動いているのかもしれない」という感覚に訴えるものに他ならない。

ある種の「ホラー」が、鑑賞者のために、謎解き的に構成され、それゆえ精緻で確固たる秩序として描かれてしまうのに対して、大槻の描く、異なる秩序(たち)は身近さと突飛さがあり、それらの侵入は、そっけなさで特徴づけられているように見える。
私たちは、日常的に不可解なものに侵入され、それらと相互浸透している。そうした感覚を彼女の絵は表現しているように思われる。

大槻の絵では、フィリップ・K・ディックほど異常でない仕方で、筒井康隆ほど突き抜けない仕方で、ぽこぽこと「何か」が「何か」溶け合っている。
(もし、そう確言してよいなら、以上のことが、大槻が本の表紙を描くとき、しばしばホラー小説のそれを描くことになるのかの説明になっている。)



何かが侵入すること、可能性がこびりつくこと


思えば、大槻の絵には、異なる秩序の侵入、異質なもの(かもよくわからないもの)がぽこぽこと侵入する絵が多数あった。



「家05」




規則性があるのかないのかも判然としない図形、線、面、色、不可解な生物(?)が、どんどんと侵入し、境界を揺らがせている。
いや、そもそも、それが人間の生なのではないか。

様々な、異なるリズムを持った断片に取り囲まれている。私たちは線を選び、線を描く。しかし、そのときですら、線を「完璧に」引くことはできない。
そうした線を裏切るように、世界は展開していくし、その線自体が、私たちを離れ、私たちの生に侵入し、折り合い、重なっている。





小さな四角を反復し、格子を構成するように、多くの断片としての絵――絵自体が、何らかの秩序に従って作られたもので、それが寄り集まって何かを構成しているのであれば、そう呼んでいいだろう――が、並べられることで、何らかの秩序を構成しているかのようだ。
(恐らく、大槻の展示自体が、そうして線を描き、秩序=星座を描くことでもあるのだが、話が長くなるので指摘に留めておく。)
(大槻の「整列」や、グッズの陳列は、秩序維持のジャンクな戦略として提示されているという見解は、「神なき世界のおまもり」(2016)に関連して書いたことがある。)

最も特徴的なのは、「ゆめしかちゃん改」だろう。


「ゆめしかちゃん」を取り囲むのは、無数の器であり、読み取ることもこんなんな文字の断片だ。
私たちがグッズを買い、絵を買い、服を買い、電子機器を買いそろえて、ツイートで自分を構成するとき、私たちは、「(現に)そうであるわたし」と、「(現に)そうではないわたし」を線引きしている。
数々の可能性を捨てて、今の自分を維持・構成しようとしている。
そして、そのとき、秩序維持に使うものたちは、他人にとって取るに足らないものであることが多い。砕け散った文字のように。

しかし、フジツボのように、ゆめしかちゃんのベッドや、ゆめしかちゃん自身に、色や図形が侵入しているように、それとは異なる無数の秩序が、彼女に侵入し、張り付いて、溶けている。
それを取り除くことは難しそうだ。

このこびりついた無数の何かは、「そうではない」として忘れてしまった秩序の断片、自分が描きえた秩序の欠片だとみなせないだろうか。
それは、引けたかもしれない線かもしれず、誰かが同じものを見て引いた線かも知れず、かつて自分が引いた線かも知れない。
私たちが「現実」として小ざっぱり収めている枠のすぐそばに、こびりついた可能性の断面を垣間見ている。おどろおどろしく、蠢く可能性の欠片を。

私たちは何かを選び、線を引き、当てはめるが、現実がそれに収まることはない。
常にそれを裏切っている。線は越えられる。時に忘れられ、放棄される。
しかし、漏れ出し、侵入し、こびりついた秩序は、今手にしている秩序を破壊することなく侵犯し、私たちの生を取り囲んでいる。
(多分、そうして「わたし」の境界を揺らがせて、それは、いつでも変化しうるし、変化するものだということを思い出させ、変わるよう誘っている。)



この絵と共につぶやかれた言葉はこうだ。

見た目だけじゃなく自分で描いていて退屈でない線ってどうやれば出てくるんだろうと模索している感じもあり。。空虚さを描くには線と向き合う必要がある 2017/12/2)




追記:
2017年12月、12-27日、伊丹の「創治郎」にて、大槻さんの個展「がたんごとんひるね」が開かれます。

2017年11月26日日曜日

agoera個展「Missing」の感想

以前から気になっていたagoeraさん個展「Missing」が大阪のondoで開かれていたので、みにいってきた。


ここに表示する絵は、ondoのオンラインストアに表示されているもの(=買える)、ondoのツイッターに挙がっている写真など、ネットで見られるものに限っている。
以下、敬称略。




agoeraの絵は、記憶と同じくらいぼやけている。その感覚は、いくつかの絵を見れば共感してもらえることと思う。
実際、「懐かしい」と感じたり、「喪失感」というワードでagoeraさんの絵を特徴づける人は多いらしい。そうした感想は、この「ぼやけ」に由来しているのだろう。

Village


遠い記憶のようなぼやけは、古すぎて誰が撮ったのかも忘れられた写真を見るかのように 、これらの絵をみるよう告げているようにも思われる。

窓辺#03

今、「写真」と言った。アメリカの哲学者ウィリアム・ジェイムズの文章の中に、こんな一節がある。
装置の外側から見ると、ステレオスコープあるいはキネトスコープの画像(pictures)は、立体性、動き(the third dimension, the movement)がない。動いているとされる急行列車の見事な写真(picture)を手にしたとき、ある友人が「この写真のどこに、あのエネルギー、つまり、あの時速五十マイルがあるっていうんだ?」と言うのを聞いたことがある。William James, The Varieties of Religious Experience, (Dover, 2002) p.502
 現前している対象を知覚する私たちが、その対象から感じ取る「感じ(feeling)」を、写真は奪い去ってしまう。それは、写しにすぎない。あるいは、ジェイムズのよく使う言い回しを借りれば、「原文」を「翻訳」したものでしかない。


Church


だとすること、これらの絵は何の「翻訳」だというのか。「原文」は何なのか。
ストレートに答えを探す前に少し寄り道しよう。

I'll wait for you

agoeraの絵には、女性が描き込まれることが多い。それは、『草枕』の主人公のように、どうしても動き出す女性を「絵画的な平面」に押し込むことのようにもみえる。
画中の人間はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立体的に動くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起こったりして面倒になればなるほど美的に見ている訳にいかなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起こらないようにする。
こうした欲望を持った「画工」を主役とする『草枕』は、「図式的に言えば、奇矯な三次元の演劇的女性を美しい二次元の絵画的女性に変換したところで」閉じられることになる(福嶋亮大『厄介な遺産』59頁)。

寄せては返す

これらの文章は、まったく異なる文脈であるにせよ、写真のように見ることや、絵画的な平面に落とそうとすることは、「三次元」や「動き」を抑え込む役割を果たしかねないことを示唆している。

こうした特徴を、写真や絵画というメディアに本質的に帰属するかどうかは問題ではない。 写真的・絵画的な平面に紐づけることができるような、「美的な一瞬をとらえたい」という欲望を見出すことができさえすればいい。

茂る

 一瞬を切り取り、平面に収めるという欲望は、必然的に、「立体感」や「動き」を対象から奪い去り、原文の翻訳にすぎないものへ還元してしまうのだろうか。

つまり、agoeraは、ご多分に漏れず、平面化する欲望にとらわれているのだろうか。「focus」というタイトルの絵を、まさにこうした欲望の反映とみるものがいてもおかしくはない(が、これは鑑賞者に向けたショットであることに注意する必要がある)。

以下のような、植物がモチーフとなっている絵をいくつか思い出すといい。

浮かぶ光

こうした植物の絵は、記憶と同じくらいぼやけていることで視覚的な対象として平面で静止しない。
この植物に典型的にみられるように、agoeraの絵は、「超然と遠き上から」見ることを許さない、つまり、絵の中で「動き」を読み取るよう求めているように思える。

この絵には、「光」という視角的なタイトルがついているものの、「動き」を読み取った者の中には、音まで聞こえさせる。あるいは、絵次第では、風の冷たさまで。

Nancy

ともかく、agoeraのぼやっとした絵(という言い方はすごく貧弱だけど)は、「立体性」や「動き」のある瞬間を、その「感じ」ごと封をする装置ではないだろうか。
あるいは、そうした「感じ」を生じさせるための装置ではないだろうか。

agoeraの描こうとする瞬間が、切り取られた「平面的な一瞬」であるというより、gif.動画のようなシーケンスであり、その場に居合わせることで感じられた「感じ」を思い起こさせるものだということは、フライヤーか何かにも使われた下の絵からストレートに感じられるだろう。

Dance

agoeraの絵は、平面化された動きのない一瞬を保存しているわけではない。
むしろ、agoeraの絵は、かつて=そこに=あった「感じ」を、誰かによって生きられたシーンを、観る人の中に再演する装置のように私には思える。

このような視点に立つと、agoeraのぼやっとした描き方は、そこにあった「立体性」や「動き」を保存するために呼び出された戦略だと言えないだろうか。

要するに、この美的な瞬間を平面に閉じ込めたいという『草枕』的欲望と、「立体性、動き」などの「感じ」を奪い去ることへのジェイムズ的な心配を両立させるための方法として、「ぼやっとした絵」が描かれている、というお話。

そんなこんなで、いい展示でした(11月26日で会期はおしまい)




2017年9月12日火曜日

岡本健『ゾンビ学』(人文書院)を読む:近代、移動、資本

いつもお世話になっております。
ミルチこと、某院生です。

兼ねてからお知り合いだった、観光学者の岡本健さんの『ゾンビ学』(人文書院)を本日ようやく手にすることができ、読んでいます。
多くの書評やレビューの類はあるので、取り留めもない考えや思い付きを書くことにしたいと思います。


1.ゾンビと私


古めの知識人とか、大学教員が、かつてよく書いていた文章として、「〇〇と私」というたぐいのものがありました。
「寺山修司と私」とか、「マルクスと私」とか、そういう感じのタイトルは五万とあります。
そして、この種のタイトルの文章が苦手でした。

このタイトルの文章に反発していたのは、「お前の個人的な話なんてどうでもいいよ!!」「研究の話してよ!!」と思うからですね。
でも、ここはブログなので好きに書くのです。

何を隠そう、私はかなりゾンビが好きです。
小説とかだと、幽霊の方がモチーフとしてはずっと好きなのですが、ゾンビは映像としてかなり好きです。
幽霊+ゾンビ好きだった私は、学部時代に「幽霊」と「ゾンビ」を比喩的なモデルとして、現代のコンテンツ環境を論じられるのではないか?と考えていました。

当時どんなことを考えていたかを正確に再現するのは難しいのですが、多分、こんな感じです。
二次創作(n次創作)ありきのコンテンツ状況を切り分けるとき、二つのタイプがあるのでは?というもの。具体的には……

・幽霊型

二次創作の多さ、濃さが、「源泉」に当たる人間・場所や「原点」に当たるソフトなどの卓越性をますます高めるようなコンテンツ
→ある種の作品が反復されるごとに、色んな幽霊が「憑く」イメージ。

例としては、初音ミクを初めとするボーカロイド、それから声優(演じてきた各キャラクターが声優に「憑く」)。
上には、一次の「創作」を含めませんでしたが、もしかすると該当するかもしれません。
基本的には、人間や場所、ソフトウェアなど、それ自体が「器」のような、「空」のような存在を念頭に置いていたはずです。

・ゾンビ型

それに紐づく作品が、元の作品に「似た」「別の」ものとして、大量に存在していること。
フロイトの「不気味なもの」のイメージです。似たものは、そのものではないので、あくまで類似した存在であって、原作を根本的に脅かすようで、原作の存在感を際立たせているところがあると思います。
人間に似たものであるゾンビの残虐な非人間性が、かえって人間の非人間性を際立たせる、という描き方をしたゾンビ作品が無数にあるように。
あるいは、原作が噛みついて、どんどん感染者(=二次創作)を増やしていくイメージだったかもしれません。

どんなことを考えていて、これをどうするつもりだったのかはわかりませんが(笑)、でも、それくらいゾンビが好きだったということです。

*毎日新聞で、関連インタビューがありました。*
*日経新聞で、関連インタビューがありました。*


2.ゾンビと移動性


第二章「フレームワーク・オブ・ザ・デッド」の移動/立てこもりの話が既に面白く、今準備している研究発表の原稿と似ているところがあるので、思考が走り出してしまいました。

今準備している原稿の、ほんの一部ですが、要約するとこういうことを言っています。

前近代は、全てが「一望できる」範囲に収められていることが重要で、人間の記憶や注意などの能力が及ぶ範囲に、人口や国土などが制約されていた世界だった。
しかし、近代は、新しい技術・メディアの誕生、移動の自由、交通革命、メディア産業(特にジャーナリズム)、国際関係の成立などによって、「閉じられた地域」を越えて、様々な情報が各個人に押し寄せている。
ということは、自分の直接見聞きしない、観察しないことについて何らかのイメージを持つことを日常的に強いられる時代なんだ、今は。

こういう感じの話です。
(この要約は、W.リップマンのメディア論の前提になっている基本認識の一つに相当します。)

『ゾンビ学』52頁の「ゾンビコンテンツの時間軸」を前近代世界に当てはめると、面白いことが言えそうです。
前近代世界では、多くの人が閉じられた範囲で生活を営んでいて、腰を下ろしていた。いわば、集団的な引きこもりです。
そういう場所で、「ゾンビ・アウトブレイク」が起こったらどうなるか。ゾンビが根絶できないとしたら、ほとんどの人がゾンビになってしまうはずです。
しかし、せいぜい人口は知れているでしょうから、たちまち事態(=ゾンビ・パンデミック)は収まるでしょう。
ゾンビの側も、食すべき人肉が限られているので、(ゾンビが改めて死にうるとすれば)食べるものがなくなると、すぐに死に絶えるかもしれません。

こういう世界で、新たにドラマが起きうるとすれば、既に大半がゾンビ・パンデミックでゾンビ化したその村・町を、「旅人」や「行商人」のような人が訪問したときではないでしょうか。
どういうことかというと、大抵のゾンビものでは、どこかのタイミングでは、「人間が新たにゾンビになりうる」という拡大可能性をストーリーに織り込まねばならないからです。
これは、「ロンドンゾンビ紀行」みたいなコミカルな作品でも同じだし、『さんかれあ』みたいな作品でも同じです。
大抵は、誰かがゾンビにならないようにうまく収めていたとしても、時々は「ゾンビになる(かもしれない)」という緊張が求められるからでしょう。

翻って、集団的に引きこもる前近代世界で「ゾンビもの」が成立しづらいのは、その系の規模が小さく、また閉じられているからだと言えそうです。
「G→W→G'」的な意味で、ゾンビものは、常にゾンビになりうる新しい人間が次々と投下されていくことで駆動されていくのかもしれません。(ここでは、スリルが生み出されさえすればいいので、実際に誰かがゾンビになってしまう必要はない)

だとすると、前近代では、新たな人間が資本投下されづらい、新陳代謝(の可能性)が生じづらいので、描きにくいと言えそうです。
新たな感染可能性が、物語にサスペンス(緊張)を与える、と言った方がわかりやすいでしょうか。前近代は、系が小さく閉じられているので、新しい感染可能性が小さくなっている。

実をいうと、これを実際の「近代」「前近代」に対応させる必要はなくて、系の「開/閉」と、その規模の「大/小」で語ることのできる問題だと思います。
多くのゾンビもので、登場人物たちが次々と移動するのは、物語の流れからそうするわけですが、この観点から見ると、新しい感染可能性を求めて移動させられていることになります。

以上のざっくりした話を踏まえると、交通革命が起きた19世紀以降、農村から産業労働人口が流入して都市化した時代というのは、系の「開/閉」の面から言って、非常な画期だったと言えそうです。
(107-9頁辺りは、電話やラジオというメディアがゾンビ作品内で果たす役割が描かれていて、系の「開/閉」を考える上で、重要な取っ掛かりになりそうです。
また、「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」などを論じた246-53頁も、「移動」ないし「立てこもり」を論じていて、直接つながりそうな話があります。)


3.フードツーリスト


この観点から最も興味深いのは、ゾンビをフード・ツーリズムの実践者に喩えた11章「死霊のたびじ」です。
この見通しは、二つの観点から面白く読みました。

①資本主義の原理をいくつものレイヤーで反復している点を描き出していること。
新たな感染可能性を要求するゾンビ作品/新しい食事を要求する飢えたゾンビ/新しい商品を要求する飢えた消費者/新しい情報を求め続けるツーリスト
マルクス言うところの「G→W→G'」のイメージです。

②それが「ツーリズム」つまり大衆観光以降の話を念頭においている以上、まさに、ゾンビが近代的な問題だということに触れていること。
先に触れた、系の「開/閉」や、その規模の「大/小」という問題が、前近代と近代を分かつ分割線になっているのだとすれば、ツーリズムを通して、近代について考えている章になっています。
この画期をもたらしたいくつかの重要なメディアや技術については、ゾンビ映画との関係で考察する余地があると思います。船、電車、飛行機、新聞、電話・電信、ラジオ、それらに関する産業、移動・居住・職業に関する権利……。

あまり本文の内容に触れていない上に、すごく雑駁でまとまらない感想ですが、この辺で。
面白かったですー。