2017年1月12日木曜日

中島隆信『子どもをナメるな――賢い消費者をつくる』(ちくま新書、2007年)のレジュメを公開

消費社会論勉強会で扱った本のレジュメを公開します。

2017年1月8日に開催した消費社会論勉強会第11回「消費者教育を学ぶ!」で採り上げた、中島隆信『子どもをナメるな――賢い消費者をつくる』(ちくま新書、2007年)です。
筆者の中島隆信さんは経済学の専門家だそうです。

レジュメをまるっと公開すると、本の内容の引き写しになるので、全てではなく、一部を削除した上で公開することにします。
気になったら、書店や図書館にGOということでお願いします。

ちなみに当日は、動機や方向性はわからないではないが、各論では異論噴出という感じでした。
用語の定義の安定しなさや、論法の雑多さが目立つ本ではあるので、当然といや当然なのですが。
(例えば、一章で「インセンティブ設計」の重要性を謳いながら、各論では大して触れていないとか、色々問題のある本ではありそうです)

なお、勉強会は、京都の出町柳にて開催されており、毎回Twiplaで告知されます。毎回、読んでいなくても参加できます。
次回は、2月25日13時から、開催します。テーマは、ミニマリズム/ミニマリストです。シンプルライフについて考えましょう!

以下、レジュメです。扱ったのは、1,3,4章です。


 *




第一章 義務教育の役割


・話題は義務教育。

・いじめを解決するために、子どもにお題目(みんなと仲良くしよう)を伝えても効果がない。上下関係が地下に潜ってさらに陰湿になりかねない。子どもは上から押さえつける/教え込むのではなく、合理的な説明により、筋道立てて説得すべき。

・誰もが消費者になる。だまされないため、よい企業を育てるために、消費者教育が必要。すべての教科に消費者教育の発想を持ち込むべきではないか。



筆者による第一章のまとめ

「義務教育の目的は賢い消費者を育てることである。賢い消費者とはテストができることでもなければ頭の回転が速いことでもない。自分の人生をどのように楽しめばよいいか知っている人である。人生の楽しみ方は誰かに教えてもらうものでもないし、誰かの真似をするものでもない。義務教育における勉強を通じて自分なりの楽しみ方をマスターしていくのである。

 こうした教育は義務教育でしか実現することはできない。なぜなら、いったん愚かな消費者になってしまった人が後から賢い消費者に転身するためには多大なコストを要するからだ。賢い消費者は表層的な情報に惑わされることなく、モノやサービスの品質を見極める能力を持ち、次々と新しいニーズを生み出す。これは市場の質を高め、市場を活性化させる。まさに賢い消費者は社会にとっての大きな財産となるのである。」(48頁)



第三章 すべての学科は「役に立つ」

ニーズの明確化を

・本章は、義務教育を念頭に置いている。

・「なぜこの科目を勉強するんですか」(114頁)と子どもに聞かれたとき、教師の真価が問われる。
・筆者は「子どもが賢い消費者になるための教え方」(115頁)を提案する。

1 数学で世の中がわかる
▼数学は世界共通語
・数学は論理的思考を身につけるのに役立つと言われるが、実際は、論理的思考が得意な学生にとって、数学は有効な「表現ツール」なのではないか。
▼伝達のための抽象的な表現手法
・語学の勉強と同じように、「表現手段としての数学も言語の一種である」とみなせばよい。とすると、「使ってみて役に立つことがわかれば勉強が楽しくなるはずである」。ここでいう「言語というのは、ものごとを抽象化する手段といえる」(117頁)。
▼確率の重要性を敎える
・「確率はリスクすなわち不確実性の伝達手段である」(119頁)。「……現実に人生においてリスクは存在し、人生で危険な目に一切遭わないで済むようなことはあり得ないからだ」(121頁)。

2 「伝達力」は国語から
「読み書き」偏重の国語
・「ものごとの伝達は、基本的に『よっむ』『書く』『聞く』『話す』の四つから成り立っている。言語を学習することの目的は、この四つの手法を身につけることである」(121頁)。
・授業の効率性の観点からも、「聞く」「話す」教育はあまり重視・実践されていない。
▼「聞く」「話す」教育の重視へ
・婉曲表現が広がっていることからしても、自分の意見をはっきりと表明することへの恐怖が見て取れる。スピーク(話す)の名詞形でしかないスピーチ(発話)に、福沢諭吉が「演説」という訳語を当てた後進性は、今も現役なのではないか。
・民の側が筋道立てて広く議論をするという風土が形成されていない日本では、「民は難しいことを知らなくても官のすることに任せておけばいいという考えが染みついて」いるように思える(124頁)。
・こうした事態を招いた一因は、「聞く」「話す」教育の軽視だと思われる。
・「帰りの会」や「自由研究」も、儀礼的・アリバイ的にやっているだけで、「話す」ことの本質を捉えていない。「本来、『話す』ことには話し手によって何らかの価値が付加されていなければならない。単に調べたことを報告するだけなら、どうやって調べたかだけ教えれば誰にでも真似できることだからだ」(125頁)。
・「従来型の『聞く』教育は〔マニュアル化された〕『調査報告』」を静かにおとなしく『ごもっとも』と拝聴することであった」。しかし、本来の「聞く」ことは、「相手の『話す』内容のなかにおかしなところはないか、もしあったら質問してやろうというくらいの緊張感を持って聞かなければ」ならない。その際、「独自性」「論理性」「頑健性」を基準にすればよいのではないか(125頁)。
▼「話す」と「書く」の違い
・「話す」は現前的だが、「書く」は持続性があるなど特性の違いが多い。また、メールなどメディアごとに、あるいは世代ごとに、どういう「つもり」で送っているか/受け取っているかにも違いが出てくる。

3 社会科で平和の価値を知る
▼戦争は損な活動
・第一次安倍政権での教育基本法が説くように、社会科に「愛(国心)」という「きわめてあいまいで個人的なもの」を持ち込んだとしても、「すべての国民にとって学習の目標になりうるか疑問である」(129頁)
・筆者は、社会科の目標として、「平和というものが日本にとっていかに価値のある有り難いものであるか知ること」を掲げる(129頁)。
・戦争という国家による、人的・物的資本の破壊的な消費は、消費者の生活を悲惨なものにする。
▼平和の恩恵が大きい日本
・(平和が可能にする)自由貿易により、資源と食料というネックを解消できている。
・冷害や飢饉などの災害に対して、「有効な手立てを講じる」上でも、交易により社会を豊かにすることは重要(132頁)。
▼消費者主権の合理性
・基本的人権、国民主権、平和主義といった日本国憲法の柱は、「市場経済における消費者主権の考え方」と同義的である(133頁)。
▼統計教育の必要性
・正確な統計へのアクセスは、現状に対する敏感な感受性と変化に対する感覚を喚起する。例えば、国家の窮乏化が政情不安をもたらす、というように思考を働かせることができる。
・政府の統計作成は各省庁に任されている。「見かけ上は数多くの統計が存在しているものの、それらは体系化されておらず、統計作成のための資源が効率的に使われていないのである」(137頁)。また、「現状の業務に差し障りがなく、かつもっとも手っ取り早く人員を減らせる統計部局」が、公務員数の一律削減の影響を受け、統計の質の維持の点でも問題を生んでいる。さらに、省庁ごとに類似した調査が企業や国民に繰り返されるため、「協力を拒むケースが広がり始めている」(138頁)。

4 理科で自然とうまく付き合う
▼自然の偉大さを知る
・将来の職業と結び付け必要性を議論すると、「理科が嫌いなら文系を選択すればいいという……発想」を後押しし、理科離れ・科学離れを助長してしまう(140頁)。
▼自然からの恩恵を知る
・地球が稀有な惑星であることを教える、害獣や害虫とされる生き物が生態系で果たす役割を教えるなどして、自然からの恩恵や相互依存性についての学習。
▼環境問題は理科教育で
・環境問題を意識して一人ひとり行動してもらうには、コスト意識を持ってもらう(経済学的なアプローチをする)よりも、化石燃料の生成過程や、現状の地球環境ができあがる過程などを学ぶことで、自然からの恩恵や、「自然界の一員としての人間」という意識を育むことに注力した方がよい(145頁)。

5 英語はまず聞くことから
→ニーズないし学習目標の再定義については、一切触れられていないので省略

6 芸術も体育も消費者教育
▼芸術はまず消費者を育てよ
・音楽や美術は、特に上手でも好きでもない子も一緒に制作に参加させられ、上手な子と同列に陳列される。それにより、音楽・美術嫌いが生まれることはままある。
・「美を感じる感性には知識も教養も身分も関係ない。美は万人のものなのだ。美を素直に理解して、美に接すれば接するほどその感性を磨いていくのは子どもである。その感性を育てるのが美術館なのだ」(154頁)。金沢21世紀美術館の蓑豊の言葉に、筆者は大いに賛同。

7 個人のための家庭科
▼家庭科学習に必要なもの
・小学校の教科書には、家族観や生活パターンなど「『あるべき論』のにおいが漂っている」。「価値観の押しつけをしない」ことは、現実の変化に即していないし、意味をなさない(167頁)。
・家族という組織は、一枚岩ではない。「家族という組織を維持するためには」、ある生活様式を協働的に「実行するためのインセンティブ」を考える必要がある。「組織運営」について考えねばならない(168頁)。
・子どもが自分自身を守ることができるように、人権教育を徹底した方が良い。自身の位置を相対化し、親(毒親?)から距離を取るためにも重要である。
 


第四章 これからの社会、これからの教育

1 今こそ個人尊重を

・教育は大人が子どもにするものである以上、大人の都合の良いものになりがちである(戦前・戦中を見よ)。 
・現代の個人化社会を支えるのは、明らかに、技術進歩である。家族でばらばらに過ごすこと(例えば食事を別個にとること)が「それほど非効率ではなくなったのだ」(175頁)。 
・この個人化の流れが「社会への求心力を失わせるのではないか」という危惧がある。右傾化や愛国心の強調はその典型だろう。筆者はその動機に理解を示しながらも、「個人化へむけて大きく舵を切った時代の流れに逆らうことは難しい」としている(177頁)。 
・個人主義の蔓延が社会道徳を衰退させたと言われるが、この意見は的を外している。本来の個人主義は孤立主義でも利己主義でもない。「すべての人間が互いの存在を尊重することである」(178-9頁)。より徹底した個人主義が必要である。日本国憲法の自由主義的な精神は、これを理念化したものではないだろうか。



2 徳育より宗教教育

・福沢諭吉の『文明諭之概略』によると、「徳」の効果は近親者にだけ及ぶ。それに対して、「智」は広範囲で、社会生活を一変させたりもする。この対比を踏まえると、徳育の科目化が不毛であることは明らか。 
・福沢は、徳も智も公共化されねばならないと説く。しかし、私徳を公徳へと変換することは難しい。公的権力による徳育は戦前のような全体主義化にも近接しかねない。智を伴った伝統宗教のように、徳を公的なものに変換した例に注目することが有用だろう。 
・公徳の内実は大まかに収斂しており、世界的にも大差はない。筆者によると、重要なのは人間の不完全性――「人間の愚かさや弱さ」(188頁)――を学び、衝撃を受け入れられるほど心を柔軟にしておくことである。それにより、自他への思いやり、謙虚さ、寛容性、自己承認を育て、結果的に道徳心を形成していくことこそ目指されるべきである。 
・「道徳を教科化し、モラルを子どもに押しつけることは、知的のみならず道徳的にも完全な人間を目指すよう指導するようなもので、子どもの心の鍛錬という点からいえばまったくの逆効果である。世の中はますます窮屈になり、ルールを守らなければならないと心が固くなり、同時に傷つきやすくなる。その一方で、ルールに厳格な人はそうでない人を軽蔑し、馬鹿にするようになるだろう」(188頁)。 
・現代人がキレるのは、実際には「多様な価値観が氾濫」している社会であるにもかかわらず、「モラルという一定の狭い枠に人間を押し込めようとしていることの弊害ではないだろうか」(188頁)。



3 恋愛は立派な学科

→前節の内容を、子どもにとって身近な「恋愛」で置き換えているだけなので省略



4 「自立」とは何だろうか

・現代、自立は経済的自立=働いていることと同義になってしまっている。これは、実情に即していない。「なぜなら日本では人口の約半数が働いていないからである。働かなければ自立できないのなら、日本人の約半分は自立できていないことになる。こんなおかしいことはない」(195頁)。 
・障碍者は、自分の経験の範囲が、「養護学校という狭い範囲」での友人関係か、家族といったものに限定されてしまっており、自分自身に関する知識や、消費行動のための情報が不足している(198頁)。経験値を得る機会が限られていたために、自分の意志で自分の生活を豊かにすることができない。
・自立とは、「自分で選択肢を探し出し、その中から自分にとって最適なものを選び、自ら実行する」ことである(199頁)。「家事や育児の一切を妻に任せ、その見返りとして家計の財布を妻に渡している夫も自立できていない人間の典型例だ」(201頁)。だそうです。



※「子どもは実家に留まり続ける限り、たとえ働いていても、親に生活費を渡していたとしても自立した人間とみなすことはでいない。親に朝起こしてもらったり、部屋の掃除をしてもらったりするのは論外というべきである。自ら主体性を持ってひとつの家計を運営してこそ自立なのだ。逆にいえば、わずかな年金で生活する重度の障害者であっても、実家を出てグループホームで暮らし、限られた収入をどう配分すべきかを自分の頭で考えて生活していれば立派な自立といえる。」(201頁)

→今度は、物理的自立+経済的独立性を「自立」と短絡しているように思える。本書の「自立」の用法はあまりに多様なので、前述の意味(199頁の例)で理解するのが生産的だろう。

2016年12月25日日曜日

大槻香奈個展「神なき世界のおまもり」(2016)についての、かなり長めの感想。

はじめに。


先日、大槻香奈さんの個展「神なき世界のおまもり」に行きました。
以前、「わたしを忘れないで。」という大槻さんの展示について書いたことがありますが、今回の展示も思うところあったので、少し書きたいと思います。

「わたしを忘れないで。」について書いたことは、その後の大槻さんの作品づくりの方向性と照らし合わせても、かなりいい線いったのではないでしょうか。
曖昧輪郭線シリーズかけがえのなさ鏡の侵入性などを思えば、いい線を描いた地図のような文章だったのかもしれません。
とはいえ、大槻さんの作品を網羅的に見たわけではないので、実際は良い鑑賞者とは言えないでしょう。ちょっと長めの感想として読んでいただければと思います。

今回「神なき世界のおまもり」を見る前から考えていたこともあるので、それも合わせて書いてみたいと思います。
この記事は、三部構成です。

1、村田沙耶香と大槻香奈
2、大槻香奈作品の特徴
3、「神なき世界のおまもり」(2016)について

特に長い話はいらないよ、という方は2か3から読んでいただければと思います。
なお、作品の引用方針は、前掲のブログエントリと同じです。

1、村田沙耶香と大槻香奈


まず、最近考えていたことから書いてみたいと思います。
それは、村田沙耶香の小説との対比です。
どちらかというと、村田沙耶香さんの話が多いかもしれません。

・垂直性と水平性


芥川賞作家・村田沙耶香さんの小説を最近読んでいました。
母性や女性性を目覚めさせるような変化が作品の基調となっているように思われます。
つまり、村田さんは、〈わたし〉の境界をざわめかせるような事態を描いている。
(村田作品たくさん読んだわけではないので、いい村田沙耶香読者ではありません。例えば、『コンビニ人間』を読んでいないのです。なので、村田さんの評価は、かなり私個人の直観に拠るところが大きいと思います。)

文庫版『授乳』

ここでは、デビュー作「授乳」において、「母への嫌悪」が〈わたし〉をざわめかせていることに目を向けましょう。
ここで重要なのは、年長の他者が、〈わたし〉を脅かしているという点です。
〈わたし〉の境界を波立たせ、自己の安定したあり方を崩しているのは、タテの関係にある他者なのです。

身近な年長の他者、特に、同性の他者が、〈わたし〉の成熟と関わるという視点自体は、めずらしいものではありません。
例えば、『不思議の国のアリス』の冒頭で、アリスは姉と一緒に過ごしていますし、物語の終盤に登場するのも、姉です。描写を細かく見ればわかる通り、アリスは、明らかに姉に憧れています。
年が離れ、成熟した(ように主人公には思える)同性の身近な他者。

『アリス』のように好意的な反応であれ、村田沙耶香『授乳』のように嫌悪感の表明であれ、これらは、性の目覚めや成熟の不安を、いわば、縦方向に描く、垂直性から描くものだと言えるでしょう。

「神なき世界のおまもり」で展示された作品

こうした立場と対比すれば、大槻さんの作品は、同じものを、横方向に描いている、水平性から描いているように思えます。
具体的に言えば、同年代の少女の「群れ」を描くこと、「群体的な攪乱」を施すことによって、〈わたし〉の界面が波立つさまを捉えていると思います。

似た年代の人をしばしば取り扱う二人の作家は、当然、その年代に特有の変化への不安を描いているものの、その描き方のスタイルは、対照的だと言えるのではないでしょうか。


・夢と現実


村田沙耶香さんのデビュー作「授乳」が収められている『授乳』には、「コイビト」という短編があります。
ここでは、ぬいぐるみを恋人とする主人公(大学生)が、同じくぬいぐるみを恋人とする美佐子(小学生)に出会うことから物語が始まります。
ストレートに、ウィニコットの「移行対象」を思わせる状況設定です。

移行対象の説明によく使われるのは、ライナスの毛布です。「ライナスの毛布」とか「安心毛布」として、移行対象の提喩としてよく用いられます。
私を不安にさせる出来事や、変化を経験すると、この毛布を自分の表面に沿わせたり、ぴったりと体をつつみこんだりします。
そうすることで、波立っていた〈わたし〉の表面を落ち着かせる。

英語版wikiでは「移行対象」と同じ項目で説明されている。

自己は、移行対象との間で、社会的には通用しないような、私的世界を構築します。
この私的でファンタジー的な世界を、「夢」と呼ぶこともできるでしょう。
本当なら、移行対象との間で築かれたファンタジーを、とても個人的な世界観を、強固に維持し続けるということはしません。
少なくとも、他人との会話や生活にまでそれを持ち込んだりもしません。
移行対象は、「移行」対象であって、過渡期に私の心を支える対象にすぎない、というわけです。

村田さんの短編「コイビト」の話に戻りましょう。
そこでは、主人公や美佐子が、「現実」(社会生活)ではなく、「夢」を生きてしまうさまが描かれています。
とはいっても、夢見がちな少女たちの生活を描いた小説というわけではありません。

美佐子のぬいぐるみは、(ある仕方でで)食事もするし、排泄もします。美佐子は、それとベタつくようなキスをする。
それほどまでに、移行対象は存在感を持ち、(ある意味で)生命感のある、リアルな存在なのです。

まるで鏡のような美佐子を見るうち、主人公は、夢を生きることの醜悪さに耐えきれなくなります。
色々考えた末、主人公は、「夢」からの覚醒を試みます。移行対象とのファンタジーを捨てようとするのです。
しかし、「夢からは逃れられないのだ」と、小説は夢からの脱出不可能性を示唆して終わります。

「そんなことしても無駄だよ」
美佐子のうれしそうな声がした。デザートを目の前にしているかのような、涎がでそうにはずんだ舌足らずな美佐子の声。
「そんなことしても、ぜったいに、ソレがなくちゃお姉ちゃんは生きられないんだよ」
見ると美佐子は異様なほど生きる力に満ちたあの顔つきでこちらを見ていた。
村田沙耶香『授乳』(講談社 2010年)、121頁

「現実」に立ち返ることはできず、 夢から覚めることもできない。
移行対象と築いた「夢」は、それから逃れることのできず、それを生きることは不可避なのだ、というわけです。

この短編を読み終えるとき、きっと、主人公は美佐子の予言通りになるだろうという気にさせられます。
その意味で、「現実」よりは、「夢」に力点を置いていると言えそうです。
少なくとも、「コイビト」という短編について言えば、ここでは「現実」と「夢」が対比され、後者に軍配を告げる構成になっています。

これと対比するなら、大槻さんの夢と現実は、どちらかに軍配が上がるものではないように思えます。
どちらかというと、フィリップ・K・ディックを思わせる仕方で、「夢」と「現実」は相互浸透していて、むしろ区別がつかないものとして描かれているはずです


2、大槻香奈作品の特徴


こうした対照を経て、少し大槻さんの作品について考えてみたいと思います。ほとんどは論点の繰り返しですが。

・水平的な性格


展示空間での並列の例

展示におけるポートレートの並列にも、群体的に少女を描く作品にも見出せることですが、大槻さんの展示は、水平性が強い。
ポートレートではありませんが、小鏡シリーズも、こうして列挙すれば、水平的な性格は明らかでしょう。

並べられた小鏡シリーズ

描かれた少女は、〈わたし〉は、群れの中の一人でしかない。
個々の少女たちがどれほど個性的な容姿や髪形であろうとしても、彼女たちはやはり「整列」する少女の中の一人に過ぎない。
識別しがたい要素群の一つでしかない。それにどれだけ思い入れを抱いたとしても、多くの人にとって、群れの中の一つは、識別しがたい。

私たちは、日常の中で、規格化された製品の中の一つを購入し、その識別しがたい製品でしかないそれに愛着を抱いたりする。
しかしそれはやはり、群れの中の一つに過ぎないのだ、と考える必要があるでしょう。

つまり、 美佐子のようなファンタジーのグロテスクとも、「夢」を放棄した無味乾燥さとも異なる時間を生きたいのであれば、「群れ」(識別しがたさ)と「愛着」(かけがえのなさ)を二者択一に捉えるのではなく、それらの二重性を生きなければならない、というわけです。

・〈わたし〉の経験の個人性


大槻さんはしばしば「母性」ということに言及しています。
例えば、以下に示すのは、大槻さんの最近のツイートです。


大槻さんとしては、少女は、「母、女性、子供という3つの異なる性質」を一挙に引き受ける存在である。
言い換えると、少女は、〈わたし〉の社会的・身体的な変化を、顕著に経験する時期であり、性別である、ということです。

こうして自己が変化する体験というのは、私秘的(プライベート)なものであり、他人とは共有しがたいものです。
他人が似たことを体験することはあるでしょう。その体験について言葉を交わすこともできるかもしれない。
けれど、私の代わりに、誰か他の人間が「〈わたし〉の変化」を経験してくれるわけではありません。
「〈わたし〉の変化」を切り取って、他人に移植することができたとします。そのとき、その人が経験するのは、その人の「変化」であって、〈わたし〉の変化ではなくなります。
「〈わたし〉の変化」の体験は、ごく個人性が強いのです。
(この辺りは、野矢茂樹『哲学・航海日誌』 にも詳しいです)

DMに使われた作品

〈わたし〉の界面を波立たせる私秘的な体験を描くことや、同質的で識別しがたい微差を争う水平性を(例えばスクールカーストを通じて)描くことは、さほど珍しいことではないと思います。
それに対して、大槻さんの作品では、私秘的な経験と群体的なモチーフが、それぞれバラバラに描かれるのではなく、それらが一挙に描かれている。
個人性と、群体性という二重性がある、と言うこともできるでしょう。

ところで、以前「わたしを忘れないで。」という個展を論じたときに、「重なる/混じる」という手法、識別しがたさの追求、夢による闖入、鏡の侵入など、境界侵犯的な戦略が多用されていることを確認しました。
こうした輪郭の曖昧化、境界侵犯は、隔たれた二つの領域(閉域?)をつなぐ一つの戦略だとみなすことができます。
この戦略が架橋するのは、個人/群れ、体験/共同性、私/公、夢(ファンタジー)/現実(リアリティ)といった隔たり、二項対立です。

この「つなぐ戦略」のことを、前回の記事では、「識別しがたさ」と「かけがえのなさ」は両立すると表現したのでした。


3、「神なき世界のおまもり」(2016)について


叙述にまとまりがなく、内容面で行ったり来たりする文章で申し訳ないです。
どちらかというと、思考のメモをとるつもりで書いてきたので、やむを得ません。

今回の展示について、タイトル面で期待していた内容とは少し違うことを考えました。
というのも、(ポスト)世俗化時代における共生とは何か、価値が多元化した時代を生きることとはどういうことか、という動機を漠然と持って研究しているので、特に「世俗化」的な問題意識に直接つながるものを期待していたからです。

実はまだ考えが熟し切っているわけではないので、スケッチ的に展示で気になったことを箇条書きしたいと思います。


・〈わたし〉が影になる――自己の複数化(ダブル)


今回の展示で興味深かったのは、自己が安定した自己の境界を維持するというよりは、どんどん自己の境界をずらしていくような仕方で作品が提示されていたり、自己の影が自己のズレとして構成されているような作品があったりしたことです。

前掲作品を寄りで撮ったもの
例えば、この作品にも、そうした「ダブり」が見出せます。
特にこの写真のように、斜めからこの作品を見ると、少女の輪郭が背景に投影されていることがわかるかと思います。それも複数の輪郭が投影されています(複数の照明があるからですね)。

こうした「ダブり」のモチーフは、今年の夏に亡くなったソニア・リキエルのファッション観を思い出させます。
二重(ダブル)、私は二重でありたいと願っていた。二回ずつで、両側で、前からも後ろからもものを見ることができて、焦茶と黒の二色をもっていて、単純で複雑で、意地悪で優しくて――そんな私でありたいと。
そんなふうに、あまりにも強く複数形を望んでいたせいだろうか。知らぬ間に、ごく自然に、私は何人かの人間になってしまったようだ。
ソニア・リキエル『裸で生きたい』
この括弧部分は、実際にはルビです。
リキエルのこの文章を知ったのは、鷲田清一のモード論を通じてでした。そこで、この文章を以下のように読み解いています。少し長いけど、引用しましょう。
ソニア・リキエルが「裸になる」、あるいは「二重(ダブル)になる」といった表現で自らを賭けようとしていたのは、ひとつの可視性の次元が、ある物質的なものの介入によって別の可能性の次元へと変換する、そのような瞬間ではなかっただろうか。
もっとも、衣服や顔料の介入に先立つ身体の表面は、白いページ、白いキャンパスのように空虚な平面、意味が記入されていない零度の下地なのではない。それはへこんだりつき出たり、まっすぐに走ったり曲がったり、といったふうに、うんり、波打っており、その綾のひとつひとつがわたしたちの視覚を刺激してくる。(中略)
〈わたし〉の存在そのものが、その根源にある〈脆弱さ〉を隠しもっていて、それが衣服の可視性に訴えかける、と考えることはできないだろうか。想像力で埋めるしかない存在の穴を、衣服が想像力に「夢の足場」を形づくってやる。(以下略)

〈わたし〉が影になる、自己を複数形にするというリキエルの戦略と、大槻さんの作品のイメージは実際多くを共有していると思います。

今回の展示では、影以外の手法でも、自己の多重化が目指されていました。
例えば、曖昧輪郭線のポートレートと小鏡が対になるような演出はその一つでしょう。

対になるポートレートと小鏡

「神なき世界のおまもり」の会場では、こうして、対になるように配置された小鏡とポートレートが、入って左手の壁に、5~6セット、飾られていました。
この少女ポートレートと、何かを並べる見せ方は、「わたしを忘れないで。」 という展示におけるドクロとポートレートという対の反復でしょう。(ドクロとポートレートの対については、以前の記事を参照してください)

キャラ的に描かれた少女ポートレートが、小鏡において、さらにデフォルメされた少女として描き直されている。まさに自己の複数化です。
これが同じ少女のダブルだと言えるのは、この対が同じ色調で統一されていることです。

上下で対になる作品たち。


・水平性の新しい描き方――戦闘的な整列


大槻さんは、以前から、群体的な描き方をしばしばしていました(整列シリーズが典型)。
今回は、その整列・群体の描き方が、戦隊モノを思わせる仕方になっていました。
最も如実なのは、展示会場奥にある曼荼羅的な大作品の整列少女です。

会場奥の作品

一緒に行った妻は、「まどマギっぽい」と言っていましたが、上写真の整列少女たちには、どこか戦闘的な雰囲気があることは、確かではないでしょうか。

この少女群が、戦闘性を思わせるのは、その整列ぶりだけでが理由ではありません。
先ほど言及した、小鏡とポートレートの対は、それぞれの対が、それぞれが赤なり、黄色なり、大まかなテーマカラーを持っており、 戦隊モノ的な雰囲気を持たせるのに一役かっています。


・選択のジャンクさ、独自の秩序


会場(ギャラリー創治朗)に入って、まず目を引くのは、上に写真を乗せた作品(会場奥の作品)であることは間違いありません。
この作品についてみてみましょう。

当該作品の異なる写真


作品には色々なテクストや写真が貼り付けられています。
社会科や歴史の教科書から切り取られたのではないかと思われる肖像写真や、謎の歴史画、出展すらわからない英語のテクストや、日本語の文章など、無数のものが貼られているのです。
趣味で手に入れたであろう雑誌の切り抜きのようなものもありました。

貼られているものが、特に深い意味があって選ばれたとは思えません。
ただ、偶然、身の回りにあっただけにすぎないでしょう。ただ、偶然、手元にあったそれに、なんとなく愛着を示したに過ぎないと思います。
何かそれらしい理由があったり、それが作家の口から語られたとしても、その理由がひどく重要なことだとは誰も思わないでしょう。

そうして偶然的に選ばれたものは、チープで、子供じみているようにすら見えるかもしれません。
作品を取り囲む無数のフィギュアや雑貨の類も、無作為に抽出したかのようです。小学生が宝物を隠している引き出しを開けて見たときのような、そういう無作為な感じを鑑賞者に与えるでしょう。
要素の選択は、体系性から程遠く、ジャンクであり、子どもっぽさで特徴づけられている(選択のジャンクさ)。


この作品の特徴は、「ジャンクさ」に尽きるものなのでしょうか。
それ以外に、もう一つ特徴があると私には思われます。

実際に見たり拡大してみればわかるように、書き込まれた要素は、全体としてはなぜか整然としている印象を与えます。
独特の仕方で、整然としているのです。少女たちは、自分の周辺環境を、自分なりの仕方で整備している、と言ってよいでしょう。
この作品が示唆するのは、人の生きる世界には、当人なりの「文法」が存在するということです。
その文法に通じていない他者にとって、何が何だかよくわからないような、独自の秩序があるわけです。


ここで、先ほどの「戦闘性」を思い返してみると、少女たちは、自分たちの手元にある(愛着ある)モノや情報を、自分たちなりの文法で取り囲み、配置してみせることで、自分たちを守っているように見えてきます。
偶然であったぬいぐるみや、アイドルのポスター、アニメのフィギュア、大学時代のテキストなどで取り囲み、自分の部屋を組み立てることで、私たちは自分の安住できる空間を構築しようとしているのかもしれません。


大槻さんは、この展示について、12/15のツイートでこう述べています。
偶然性をいかにして作るのかというのは、かけがえのなさ、について考える事と近い気がしています。今回は御守りがテーマな事もあり、特に大事に出来たらと。
自分の身の回りにあるに過ぎないモノや情報、すなわち、自己と偶然的な関係しか持たないモノや情報ではある。
けれど、それには自分たちなりのストーリーや思い入れ、複雑な感情があって、「識別しがたい」それらの要素は、「かけがえがない」。
「識別しがたく」「かけがえのない」無数の要素を、(他人にはピンとこない) 独自の文法で配置し、自分たちを取り囲ませることで、なんとか秩序を構築・維持しようとする。

戦隊モノ的に整列された少女たちに戦闘性があるとすれば、それは自分たちの秩序(世界)を維持し、守ろうとする戦闘性に他なりません。
それは蟷螂の斧のような覚束なさと必死さがある戦闘性でもあるでしょう。そして、蟷螂の斧である限り、どこか滑稽で、子供じみた必死さに感じられるかもしれません。
けれど、その子供じみた必死さは、私たちが小さな日常を守ろうとする必死さとどこも変わるところがないでしょう。


・悪魔祓いとしての「片付けの魔法」


諸要素を整然と配置しようとする努力は、自己の平穏さを脅かす出来事や、〈わたし〉を波立たせる変化に対する「祈り」のようなものです。
スランプの作家が身の回りを片付けたり、トイレなどの水回りの掃除をするとよいなどと言われます。
この信念を支えるのは、自分の環境を整理することは、自分の精神を整理することにつながっているという発想です。自分を不安定にする何かを「祓う」ことが、汚れを「掃う」ことと通じ合っているわけです。
ことほどさように、秩序を維持・構築しようとする試みは、「悪魔祓い」の様相を帯びてきます。

今見ている作品についても、ジャンクな諸要素が、独自の文法で整理されているらしいという雰囲気は、どこか儀式めいています。
それに、悪魔祓いという言葉にしたって、邪悪なもの(変化)を退けるのは、宗教的なテクノロジーに他なりません。宗教を遠ざけるテクノロジーではないのです。


日本人の多くは、無宗教を自認しています。
しかし、神社やお寺には参るし、お盆は大切にするし、祭りには参加するし、キリスト教式に結婚するし、葬式だってそれなりにお金をかけている。魂や運命という語彙だって、この社会では現役です。自己啓発本は、飛ぶように売れ、そこではいかにもスピリチュアルで、非科学的な信念が提示されています。占いだって人気だし、毎朝どの番組も占い(的なもの)を放送している。

こうした現状を受けて、「神なき世界」つまり世俗化した社会における信仰のありようを、スピリチュアリティと名付び、研究がなされたりもしています
スピリチュアリティ研究においては、ある宗教や自己啓発本が提示する一連の体系を受け入れるのではなくて、様々な体系から、愛着の湧いた要素を自分なりに「パッチワーク」するのだという信仰モデルすら提示されています(「パッチワーク宗教」)。
適当に選択されたジャンクを、自分なりの独自の文法でパッチワークする。先の作品は、こうした信仰の構造を形象化したものだと言えるでしょう。


悪魔祓いが、邪悪なもの(変化)を鎮める宗教的なテクノロジーだという表現は、実のところ、展示のタイトルを別の仕方で言い換えたものだと見ることができます。
「神なき世界」にもかかわらず、「おまもり」という宗教的要素が提示されているように、邪悪なものを祓うものは、やはりスピリチュアルな何かを呼び戻さざるを得ないのです。

この点、自己啓発と「片付け」を結びつけた、ベストセラー本――近藤麻理恵さんの『人生がときめく片付けの魔法』――のタイトルは示唆的です。
片付けとは、独自の仕方で、環境の秩序を再構成することであり、諸要素を整然と保とうとする試みです。
ジャンクなものを整然と配置し、自分なりの秩序を作ろうとする努力を「片付け」と呼んでよいとすれば、「片付けの魔法」とは、その魔術性を示す格好の言葉だと言えるでしょう。
「神なき世界のおまもり」は、「片付けの魔法」と呼び替えられてよいと思います。


・住まう限り「片付け」は続く


悪魔祓いとしての「片付けの魔法」において重要となるのは、「文法の作り込み」であり、「文法的な適切さ」 です。
その人が、どれだけオタク的に秩序を作り込むことができるかどうか、その秩序に反する要素をどれだけ排除できるかということが問われることになるでしょう。

村田沙耶香さんの短編「コイビト」において、精巧に構築された「夢」を生きる少女・美佐子が求めたのは、恋人のぬいぐるみとのより安定した世界です。
そして、それに反する行為をしたのであれば、見知らぬ他人であれ知り合いであれ、ともかく糾弾されなければならない。
秩序は、そうして必死に守らなければ、すぐに崩れてしまうのです。(秩序維持の困難は、日々の「片付け」を通じて、実感されているかと思います)

秩序維持の振る舞いは、覚束ないものです。
なぜなら、世界や社会は、常に自己よりも大きいからです。つまり、実際には、〈わたし〉の境界=秩序が安定していることなど稀だからです。
むしろ、〈わたし〉の境界=秩序は、絶えず動揺し、変化を強いられている。
いや、実世界が変化に満ち満ちており、邪悪なものを鎮めきることなど不可能だからこそ、人は、執拗に「片付け」をし、「おまもり」を求めるのでしょう。

実際、大槻さんの作品は、〈わたし〉の安定した境界を作り、維持しようとする試みが不安定であることを、随所で描いています。

お札に見立てられた小品

写真真ん中の一番左手にある作品が典型的でしょうか。少女の半身を隠すように(貫くように?)「三角形」が侵入しています。
真ん中の絵も、オレンジ色の「切り込み」が侵入し、少女を飲み込もうとしているかのようですらあります。
今回の展示では、図形がぽこぽこ侵入してくる作品が多かったです。(図形系好きです)

下に示す作品でも、図形がにゅーっと侵入しています。
右上の三角形、真上の黒い帯、少女をまたぐような赤い長方形。

過去の写真を背景とする絵


少女の中を無数の器が侵入し、通り抜けています。少女とは関係がないであろう、背景にある過去の写真も、少女の頭頂部を透かすように曖昧化してしまっています。
この少女にとって、自己が安定的なものだとはとても思えません。常に〈わたし〉の境界は蠢いている。

DMに使われた作品

この作品では、単に図形に侵入されるだけではなく、戦隊モノのごとく整列した少女たちは、ことごとく図形に隠されてしまっています。
図形と少女たちの境界が「破れ」であることは、少女たちの秩序が常に「別の秩序」に接していることを示唆するようです。

実際、私たちのスピリチュアリティ(精神性)が、種々の体系からのコラージュで構成されているように、私たちを構成する要素そのものが、元々は自分の秩序の外から来ているのだとすれば、当然のことだと言えます。

この少女たちは一度作った自分たちの秩序を、幾度も崩されることになるでしょう。
人は住み続ける限り、その部屋を繰り返し「片付け」続けねばならないように、生きている限り、自己の境界線を常に引き直し続けねばならない、というわけです。


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おわりに。


とりあえず一通りメモし終えることだけを目的に書いてきたので、説明不十分な点や用語選択が適当な点など、問題も多いかと思います。
まとまらず、わかりにくい文章で申し訳ないです。

大槻さんの作品は、それ自体で好きなのですが、大槻さんの作品以上に、その展示空間が気に入っているのかもしれません。
この文章にはほとんど反映されていませんが、今回の展示から、研究上で考えていることに通じるヒントをもらえたような気がします。

大槻さんの「神なき世界のおまもり」は、展示期間が短いのですが、ぜひ観に行ってみてください。
※展示タイトル誤字してて、申し訳ないです。。



「神的存在」からの自立:追記(2016年12月27日)


大槻さんが面白いことを言っていたので追記します。


このツイートの内容を、次のように言い換えることができると思います。

以前は、「神と〈わたし〉」という垂直的な関係にあった。けれど、何らかの契機を経て持つことになった自立(切断)の決意によって、水平性を生きることになった。
それは、「神の下にある〈わたし〉」という半ば特別で神秘的な自己でなくなるということです。
そして、〈わたし〉は、どこの誰とも変わらない、「識別しがたい」存在になる。空虚な自己になる。
社会を構成する数多くの人間たち、群れとしての人間たちの一人でしかない、ということです。
個展「わたしを忘れないで。」で描いたのは、(垂直的な世界を抜け出し)水平的な世界を生き始めた〈わたし〉だったのかもしれない。



この観点から、以下のツイートも読み直すことができるでしょう。

〔映画「君の名は。」には〕何かしらの神になりうるキャラクターも居なくて、それでも自分(主人公)によって確実に世界がまわっていく事を実感出来た……。(中略)自分の思う神なき世界だった

同じことが「まどマギ」でも言われています。


ここで評価されているのは、垂直的な世界から自らの決意と行為によって抜け出し、水平的な世界を生きようとすることだと思います。
ルイ・メナンドという作家の表現を借りれば、「不確実な世界で、それでも自分の運命の主人公であろうとすること」とでも言い換えられるかもしれません。
ここで賭けられているのは、自らの意識的な決断の繰り返しによって、 水平的な世界を生きようとする中で、「識別しがたさ」と「かけがえのなさ」を両立しようとすることなのかもしれません。


長い追記になってしまいました。
大体、似た内容を繰り返し書いているだけなので、ここでやめておきます。
次の展示が楽しみです。